第1章 見えない月の導き


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 ――いつか、自分の船で最果ての島へ行こう。 

 それは、ブランガル船長の親友の、若い頃からの口癖だった。
切れ者で、現実主義者で、ちょっと物事を斜めから見るようなところのあるジークだったが、その夢を語る時だけはいつも少年のように目を輝かせるのが面白い、とブランガルは思っていた。
 世界の最南端にあると言われている、エンダー島。南の大洋は潮の流れを読むのが特に難しく、航路はないとされている。だが、コカ大陸の南端の港からエンダー島に渡る船がある、という噂もある。他の船に行けて、自分の船に行けない場所などない。船長として、その気持ちはブランガルにもよくわかった。
「結局、おまえは行けなかったな……」
 難しい航路に挑戦したいという気持ちはブランガルにもわかったが、それだけなら他の地域にもある。どうしてエンダー島にこだわるのか。
『エンダー島には、誰も手に入れることのできない宝があるんだよ』
 ジークは、少しいたずらっぽい笑顔でそう答えてくれたことがある。彼がそんな言い方をする時は、きまって裏があった。嘘ではないが、答えがすべてでもない。そういう回答だ。それ以上はどんなに問い詰めても、のらりくらりとかわされるばかりだった。
「それが何だったのか、行ってみれば、わかるだろうな……」
 特に託された遺志というわけではないが、親友の果たせなかった夢をかわりに追いかけるのも、悪くない。
「――だが、まずはこの海だ」
 ジークの仇を討つ、というブランガルの気持ちは、航路を復活させたいという思いを上回っていた。

こん、こん、こん。

 船長室の戸をひかえめに叩く音で、考えにふけっていたブランガルは我に返る。
 深夜。《シルフィア号》は物見台にのぼった見張り以外、乗っている人間のほとんどは寝静まっていた。ブランガルも寝ようと思っていたが、考え事をしているうちにいつの間にか遅くなっていたようだ。
「船長さん? 入ってもいいでしょうか」
 礼儀正しく戸を開けたのは、ラギだった。頬にひとすじ切り傷ができている。
「ケガは大丈夫か?」
「僕はほとんどケガをしなかったので、大丈夫です」
 昼間の戦闘のことだ。
「安静にしているのは、三人だけですね」
 三人とは、最初に不意を突かれた船員と、船酔いで倒れたウォン、そしてシエリだ。
「あの子供も、少年と一緒で船酔いじゃないのか?」
「僕には違いはよくわかりませんでした。けれど、あの女性……ルツさんでしたね。彼女が言うには、船酔いではああいった症状にはならないそうです」
「怪我もなかったようなんだがな。――それにしても、いったいどうしてあんな子供が、この船にまぎれこんだんだ?」
 ブランガルは頭を抱えた。自分が乗せた覚えはないから、船員の誰かが許可したか、もしくは密航ということになる。海の藻屑となるかもしれないような船に乗り込むことを、密航と言っていいかどうかは別だが。
「船長さんが雇った人というわけじゃ、なさそうですね」
 小さく首をかしげるラギに、「当り前だ」と即答する。
「誰があんな子どもを乗せるもんか。人夫として乗せた少年二人だって、できれば乗せたくはなかったんだからな。この船が安全である保証はどこにもない。それどころか、いつ海に沈むかも分からないような危険な航海だと言うのに!」
「みんな、何か力になりたいと思ったんですよ」
 ラギは、ブランガルを励ますように微笑んだ。
 深夜のことだから、近隣の個室でもう寝ているはずの人たちを起こさないように声をひそめるのは当然だが、それでなくてもラギの声は柔らかく、静かだった。
「今日のところは全員生きて越えられたがな。明日も無事という保証はどこにもない」
 一方、ブランガルの声は少々荒っぽい。
「原因不明の、魚と鳥の来襲。乗組員の負傷、子供二人が倒れた。一人は船酔いらしいが。一日目からこれでは、先が思いやられるな……!」
 叫びたいのをこらえているような声だった。
 ふと、その目がラギの腰の剣にとまる。
「あんたは、闘いの間、どこにいたんだ?」
「僕は、ずっと甲板にいましたよ」
 それにしては、話に一度も出てこなかった。不審そうなブランガルに気づいてか、ラギは付け加えた。
「ああ、傭兵さんたちはみんなで一ヶ所に集まって魚や鳥の相手をしていたから、気がつかなかったのかもしれません。船長さん、剣を確認しましょうか?」
 戦った証拠として、そこには魚か鳥の血糊の痕が残っているのだろう。ラギは自分の剣を粗略に扱うようには見えないから、きっと手入れはすっかり済んでいるだろうが、それでも生き物を斬った剣のくもりというのは、完璧にぬぐえるものではない。
「……そう言えば、あの無賃乗船の客が言っていたんだが」
 ブランガルはそれで思い出して、ラプラの話した『消えた血痕』のことをラギにも伝え、あらためて剣を見せてくれるように頼んだ。もちろんラギも快く承諾したが、剣を鞘から引き抜いたとたん、その動きが止まってしまった。
「そんな、まさか」
 慎重に、ゆっくりと剣を引き抜いて、目の前にかざして何度も確認した。しかしその剣には、古い汚れや傷はあっても、今朝何かを斬ったような痕は何も残っていなかった。
 ブランガルも真剣な目でうなずく。
「これで、あんたが参戦していなかったというなら、別に不思議はないんだが。あんたに限って、そんな嘘を言うとは思えんしな」
 その口調は、念を押したり探りを入れているような言い方ではなく、真実、ラギのことを信用しているのだとわかるものだった。

 ラギとは、今回の航海が初対面ではない。初めて会ったのは数週間前、まだユーゼリア大陸との間に不自由なく船が航行できていた頃、ローアン港からディオン港に向けて出航するときに、客の中にいたのがラギだ。
 短い航海の最中、まれに起こる不幸な事故が、その時もたまたま起きた。それは決してブランガルの船《シルフィア号》にだけ襲いかかる不幸ではないし、特別運が悪かったわけでもない。どの船にいつ起きてもおかしくない不幸だった。
 ラギが乗船していたその時に起こったのは、むしろ幸いだったかもしれない。《シルフィア号》は海賊船の襲撃を受けた。
その場で協力を申し出たのは、ラギにとっては当たり前のことだった。

「……あの時は、まあ、驚かされたがな。助かって感謝しているよ」
 ブランガルは苦笑してラギを見た。ラギもにこにこ笑って、少しだけ困ったように答えた。
「すみません」
「いや。まあとにかく、あんたは俺の船と乗客たちを救ってくれた恩人だ。頼んでもいないのに、進んで手を貸してくれるようなお人好しだ。それも、2回もな。そんなあんたが、わざわざ今になって、つまらん嘘をつくはずないだろう」
「はい、嘘はつきません。この剣で、確かに昼間、鳥を斬ったはずでした。……どうして何の痕も残っていないのか、分かりませんが……さきほどの話が本当だとすると、この剣に付いたはずの血糊も灰のように消えてしまったんでしょうか」
 ラギは、じっと自分の剣を見つめた。綺麗なものだった。本当に斬ったのか、自分でも自信がなくなるくらいに。だがブランガルはそんなラギには構わず話を続けた。
「今回も、あんたの剣には期待しているからな。ま、あんな大技をいつもいつも出してくれとは言わないから、本当にどうしようもなくなった時には、頼む」
 ますます困ったように、ラギは微笑んだ。
「僕は本当に、まだまだ力の加減ができない修業中の身です。前の時は、運が良かったからあの程度ですんだんです。ふつうの剣技で良ければ、いくらでもお手伝いさせてください」
「そうか。まあそれでもいいさ」
 ブランガルは笑って請けあった。それから、
「そういえば、こんな時間に来たのは、何か用があったんじゃなかったのか?」
「そうでした。これを」
 ラギが、持って来た包みを机の上に置く。中には湯気の立った水差しとマグが入っていた。
「きっと船長は根を詰めているだろうから、と言って」
 コックに持たされたのだと言う。大きな身体のわりに、細やかな気遣いをする男だ、とブランガルは感謝した。
「それから、明日の朝には、倒れていた少年は元気になっているそうです。薬を調合してくれた女性が、保証してくれました」
「そうか。今のところ唯一の明るい話題だな、それは」
 相変わらず、先行きは暗い。見通しも立たない。だがラギの笑顔につられて、ブランガルも小さく笑った。
「お休みなさい」
「ああ」
ラギが船長室を出て行った時には、深夜もかなり過ぎた頃だった。もう何時間かすれば朝日が昇ってしまうような時間になっていた。
熱い飲み物をマグに注ぐと、いい香りが広がった。そういえば最近は香草茶に凝っているとか言っていたな。あれも多趣味な男だ。ほんの少し酒が加えられていることに感謝しつつ、暖かさをゆっくりと楽しんだ。
彼の親友の男は、今はもう月の住人になっているだろうか。
見上げても、暗闇の夜空に双月は見えない。

 ブランガルは結局、その日は一睡もできずに夜を明かした。





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