第1章 見えない月の導き


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 一方、この船に乗りこんだ唯一の乗客ということになっているルツも、甲板でゆったり日光浴を楽しんでいた。
「物騒な襲撃さえなければ、船の旅っていいものよね」
 ルツは大きく伸びをした。
「――まぁ、襲撃があっても戦うのは私じゃないから」
 別にどちらでも構わないわね。あくび混じりにそう言って、優雅に両腕を伸ばす。気持ちのいい午後の陽気だった。
 ちょうどその時、階下からキルトが上がってきた。キルトは既にかっぽう着を脱いでいて、頭にしていた三角巾も、うっとうしそうに片手で外す。
「ふーっ」
 潮風を受けて、気持ち良さそうに目を細めた。
「あら。もう皿洗いは終わったの?」
 ちらっと振り向いたキルトは、口でこそ何も言わなかったが、目から大量の不満を垂れ流していた。誰のせいで、という不満だ。左手の三角巾で、ぱたぱたと顔をあおぐ。
「まあな。ところで、あのうるさい馬鹿がいないようだが?」
「気になる?」
 にんまりと、意地の悪い笑顔で聞き返されて、思わずむっと言い返す。
「気になんかなるものか。あんな目障りな奴はいないほうが静かで助かる」
「船酔いよ。下で寝てるわ」
「はっ」
 情けない奴。キルトは鼻で笑った。口ばかり大きいくせにいざとなったら役立たずだ。どうせなら船が港に着くまでずっと寝てろ、と真剣に思った。
 キルトやルツと同じように、シエリも船べりに寄って海をながめていた。長くてさらさらの青灰色の髪が強弱のある潮風に遊ばれてひらひらと舞い、ときおり強い日射しを反射してきらっと光る。
 その髪をがっちり押さえつけているように見える金細工の大きな耳飾りが、キルトは気になった。あんなものが付いていては、この気持ちいい風を十分に楽しめないだろうに。
 なんの気なしに、声をかけた。
「あー……」
 あとが続かない。声をかけられたと気付いたシエリがキルトをまっすぐ振り向いて、続きをじっとうかがっている。大きな紅玉のブローチをはめ込んだような瞳が二つ、キルトの狼狽した表情だけをくっきりうつしているのが、ますますキルトをあせらせた。
「なんだ?」
「いや、その……耳のやつ。邪魔じゃないのかと思って。……外せば?」
 何となく目をそらしてしまう。だが言いたいことは伝えた。
 シエリは可愛らしく目をしばたいて、「これか?」と言いながら耳飾りに手をやった。
「これは、できるだけ外してはいけないと言われているのだ。母と、母より恐ろしい人の二人からだ。そんなに目障りだろうか」
「いや、別に目障りとかっていうんじゃない。ただ、せっかく風が気持ちいいのに、それが邪魔をしてるんじゃないかって……」
 あわてて訂正する。語尾が消えていた。だいたい、キルトは同年代の女の子というものに対してろくに免疫がない。言葉をかわす機会くらいは今までにも何度かあったが、何を考えているかわからないこの年頃の少女は、苦手な生き物の一つと言ってもいい。
 シエリの方はいたって平然とした態度で、キルトのあわてた様子も気にしていないようだ。
「そんなに気持ちのいい風なら、少しくらいは外しても大丈夫だろう」
 両手を耳飾りにやると、あっさりとそれを外してしまった。
 とたんに、押さえつけられていた髪がふわっと風になびいた。
「――おお」
 相変わらず表情に大した変化は見られなかったし、口調にも驚きや喜びといった感情が表れたようには聞こえなかったが、言葉だけ聞けば、小さな感嘆のつぶやきにも聞こえた。
「お嬢……シエリ。もうちょっと表情に変化をつけてくれないと、何を考えているんだか分かりにくいんだけどな」
 ラプラが控えめな意見をのべた。
 だがシエリは聞こえなかったようにラプラを無視して、ひたすら海に魅入っていた。
「すごい。海には、途方もない数の生き物がいるのだな」
「……そうだね」
 なぜ今、そんな事に感心しているのか、誰にも分からなかった。だがシエリはしきりと海を見つめ、歳相応の子供のようにはしゃいでいた。――少なくとも、普通の子供のようではなかったが、いつもより口数が多く、ほんの少し声が上ずっているような気が、しないでもない。
 キルトが聞いた。
「気持ちいい風だろう?」
 だが、その声はシエリの耳に届いていないようだった。海の中には知性の優れた動物も多いとか、小魚の群れがひとかたまりになって泳いでいるとか、海には魚のほかに動かない動物などもたくさんいるとか、とにかく驚きと興奮を伝えることに夢中になっているように見えた。
 ラプラとキルトが、けげんに思ってその様子を見ていると、ルツが進み出てシエリの腕をつかんだ。
「ちょっと」
「…………? 呼んだか?」
 一度振り向いたシエリだったが、何故か、聞こえにくそうに眉をひそめて、少し見当違いの方向を見る。かと思うと、またすぐに海の中をのぞきこむ。今は誰のことも視界に入っていないようだ。
「ねえ。大丈夫?」
 だがシエリは、反応を示さない。ルツは、少女の様子がふつうではないと、敏感に感じとっていた。もしかしたら少女の外した耳飾りには、何かの細工が施してあったのではないか。ルツはそんな気がした。
 少女が手にしたままの耳飾りをちらり見ると、ルツの思った通り、耳にあてがわれる部分にはあまり見たことがない細かな細工が詰まっていた。機械仕掛けのようだ。
 とりあえず、このままでは話ができないと悟ったルツは、少女が持っていた耳飾りをそっと受け取って装着させようとした。

 その時、シエリだけが異変を感じた。

「……?」
 今までずっと、海中の不思議な大合唱に熱心に耳を傾けていたシエリが、かすかに眉を寄せた。海の中から、それまでの調和のとれた音の洪水をつきやぶるような、一本の奇声が響いてきたのだ。
 頭のどこかで、警鐘が鳴った。いけない。この音に耳を傾けてはいけない。危険だ、と。分かっていたが、シエリはその音に特に耳をすましてしまった。
 だんだんと大きくなるその音は、声だった。海中の何かの声だ。その声は、ただ鳴っているだけでなく、ひたすらに、何者かの注意を引き付けようとして鳴っているのだと、そう気付いた時にはもう遅過ぎた。
 注意をそらせないほどに音が大きく鳴り響いていた。ただ一本の声が、海の大合唱をはねつけて切り裂いて、シエリの耳に飛び込んできた。

 ――ィィィぃィィぃイいぃイイぃっぃぃいイイいイぃイイイイぃいイいイいイィ――……!!!

 耳の奥で鋼と硝子をこすり合わせているような、突き刺さるような奇声。なんという、不協和音。
 そう思った時には、シエリの視界は真っ暗になっていた。
「シエリ!」
 あわてて駆け寄るラプラの叫びも、聞こえてはいなかった。
 伸ばしたラプラの両腕が、倒れ込むシエリに、かろうじて間に合う。
「どうしたのかしら」
「わからない。……何だってんだ」
 最後のつぶやきはひとり言のようだった。ラプラは軽々とシエリを抱え上げて、下に運ぼうとする。それをルツがちょっと引き止めた。
「よく分からないけど、きっとこれがあった方が、いいと思うわ」
 そう言って耳飾りを差し出した。意識のない少女に、ルツは丁寧に耳飾りをつけてやる。
「本当は、具合の悪い時ってこういうものは外した方がいいんだけれど」
 二人はそのまま階段を駆け降りていった。騒ぎに気がついた傭兵たちも、何事かと様子を見にきている。
 一人、キルトだけが動けずに立っていた。
 別に自分のせいではない。誰が責めたわけでもなかったが、キルトは思わず自分に言い訳しそうになった。そう、たしかにキルトのせいではない。もしも耳飾りを外したせいでシエリが倒れたのだとしても、キルトが無理やり外したわけでも何でもなく、シエリが自分から同意して外したのだから。
 だが、何となく悪いことをしたような、罪悪感のカケラのようなものが、キルトの胸の内にしこりとなって残った。倒れた原因が違うものであればいいのに。

 ――――ぱしゃんっ。

「……え?」
 唐突に。
 船のすぐ近く、正確には、キルトのすぐ横の船べりの向こうで、水音がした。周囲には他に誰もいない。魚でも跳ねたんだろうと思ったが、それにしては大きな音だった。まるで、何かが海に落っこちたような。しかし落ちるような物も特にない。
 不思議に思って、キルトは海に身を乗り出した。ゆらゆら揺れる海面のほかには、何も見あたらない。
 水や魚がはねただけにしては、妙に大きな音だった。しかし不審なものが何も見つからなければ、それ以上怪しみようもない。
 キルトは水音について気にするのをやめた。
「――よし」
 シエリのお見舞いに行こう、と決めたのだった。





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