第1章 見えない月の導き


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 海は、荒れていた。
 ラグランシア大陸における大華三国の一つ、『富のディアニア』の首都ディオンには、巨大な貿易港がある。その、見事に整備された港の岸壁に、沖を見つめる数人の男がいた。

「戻ってこないな」
「これで12船めか?」
「――いや、13だ」

 厳しい表情で腕を組み、直立不動で海をにらむ。
 たったの三人だ。巨大な貿易港に、にぎわいはなかった。出航準備で荷を積み込む船も、汽笛をならして入港して来る船の姿もない。通り過ぎる人の姿すらない。
「おい……あれ、違うか?」
 ふいに一人が水平線を指差した。船影のようなものが、だんだん大きくなってくる。三人の表情が期待に輝いた。この数日、ディオン港から出て行った船で無事に帰ってきたものは一隻もなかった。これが初めての生還である。まだ見える距離ではないと知りつつ、思わず手を振った。
 しだいに船の様子が見えてきた。その時になって初めて、男たちは異変に気がついた。
「帆が……どうしたんだ? あがりっぱなしだ」
「傾いてるぞ」
「待て、見張り台に誰も居ない。甲板の上もカラだ!」
 尋常ではない様子のまま、船はこちらを目指して進んでくる。舳先が折れているのが見えた。船体のあちこちに穴が空いているのに気がついた。帆はボロボロでマストも傾いていた。
 そんな状態で、高波にもまれながら、船は港の岸壁にぶつかるようにしてたどりついた。
 さっそく船員が飛び出してきて桟橋を渡したりするかと思えば、人の出てくる気配さえない。中の乗員達はいったいどうしたのか。
 不穏な様子を感じとった男たちは、岸壁からロープを投げて船を波止場に係留した。さらに軽く助走をつけて甲板まで飛び移ったが、まだ誰も出てこない。

「誰か、いないのか!」

 男たちは口々に叫んでみるが、返答はなかった。顔を見合わせて思わず黙りこむ。不安の中に恐怖が混じっていた。
 甲板のあちこちに、赤黒い液体や青黒い液体のこびりついたあとがある。折れた銛の柄が転がっていた。まるで、何か大きな戦闘をくぐり抜けてきたかのような有り様だ。
 しばらく誰も動こうとしなかったが、一人が重い口を開いた。
「おい、下の船室だ。それと船長室」
「港まで来たってことは、少なくとも誰かは……無事なはずだ」
 生きてるはずだ、と言いかけて言葉を選ぶ。
 三人は気を取り直し、手分けして船内を探索した。どこもかしこもボロボロで、ところどころは浸水しかかっている。
 一人が船室の戸に手をかけた。ところが、何かがつかえているような手応えで、押しても引いても開かない。
 二、三歩下がり、勢いをつけて体当たりをかけた。
 ばんっと弾かれたように戸が開いた。
 船室の中には、

「――――何が、あった……」

 男は、思わず左手で口元をおおった。
 薄暗い船室の中には、明らかに息をしていない船員たちが折り重なるように転がっていた。
一歩、中に踏み込むと、足元で「にちゃっ…」という音がする。見なくても分かる、固まりかけた血の海だった。たまらず部屋の外に飛び出した。
「どうした? 青い顔をして」
「……この中の連中は駄目だ」
 よほど変な顔で答えたのだろう。相手は不審げな表情で船室をのぞき込もうとした。それを力づくで押し止めて、吐き出すように告げる。
「中は……血の海だ。バラバラで…腕とか、脚が……」
 ヒッ、という息を呑む音がした。
 その時、船長室の方から叫び声が聞こえてきた。もう一人が呼んでいる。二人は船室を素通りして船長室のある方へ走った。
「どうした」
「ジークが生きている!」
 ジークとは、この船の船長の名前だ。男たちの友人でもあった。皆、海の仲間だ。
 あわててかけつけてみると、確かに見覚えのある男が床にうずくまっていた。外傷は少ないようだったが、どう見ても顔色は青いというより土気色に近い。胸から下が奇妙に押し潰れているのが、服の上からでも容易にわかった。
「おい、生きてるか。ジーク。ジーク!」
「ジーク!」
 必死に呼びかけると、かすかに反応があった。だが、薄く開いた目の焦点が合っていない。
「ジーク、何があった」
「…………」
 船長はゆっくり首を振って、何か口を動かした。それはもう声にならず、離れていた男たちの耳には届かなかった。そばにいた男が口元に耳を近づけた。もう一度かすかにジークの口が動いた。
 そして、それが最期だった。

「……とにかく、船舶組合に伝えよう」
「14隻めめは誰の船になるんだろうな」
「俺が行く」
「ブランガル?」
 暗い表情で船を降りた男が、驚いて隣を見た。ジークの最期を看取った男だった。
「ジークは俺の親友だった。俺が行ってケリをつける」
「本気か、ブランガル。確かに俺もジークとはよく一緒に飲んだが」
「心配するなよ。何もお前に付き合えとは言わんさ」
「だが乗組員はともかく、一人で出て行って何ができるってんだ?」
「街で傭兵でも雇うさ。十人も集まれば何とかなるだろう」
 つとめて明るい口調でブランガルは答えた。
 とにかく海に何かがいる。それだけは確かだった。
 季節は虚月。
 恵みをもたらすシータもエータもなく、最も月の加護が薄いこの季節。空には災いを呼ぶ黒月《ラムダ》が昇っているとも言われている。闇夜の下で、人々は赫月の季節をただじっと待つしかなかった。





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第1章 見えない月の導き