第1章 見えない月の導き


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 魚も鳥もすべて追い払い、あるいは甲板に叩き落とした頃には、そうとう時間が経っていた。ウォンはすでに船員の一人、ジョイによって船室に運ばれている。
 戦闘に参加した全員が肩で息をして座り込んで休んでいるところに、それまでずっと船室に引っ込んでいた二人の傭兵が上がってきた。
「おまえら……今まで何してたんだ」
 座り込む一人が、ちょっとイラついて聞いた。
「傭兵全員が出払ってしまうのは得策とは言えないだろ。最初だけ様子を見てたが、大した被害も出そうになかったからな。俺は下で非戦闘員達の守りについてたぜ」
「あたしはケガ人のところに居たわよ。別に非難されるいわれはないわ」
 そう言われると確かに正論である。
 そのうしろに続いてコックとキルトも上がってきた。どうやら二人はずっと厨房に居たらしく、お揃いのかっぽう着と三角巾姿だった。
 もくもくと甲板に落ちている魚や鳥を集めはじめた。それを見ていたラプラが聞いた。
「もしかして、それ、今夜の晩ご飯になるとか?」
「魚の方は昼飯に出してやる」
 冗談のつもりで言った言葉に真面目な答えが返ってきて、ラプラの方がぎょっとした。確かに、殺したものは食べられるなら食べた方がいいのだろうが……普通ではない行動を取った動物を食べる、というのはあまり気持ちの良いものではない。食べても大丈夫なのか。
 その全員の気持ちを代弁して、キルトが聞いた。勇気ある発言だった。
「船を襲う異常な魚なんて、食っても大丈夫なのか?」
「食い物を粗末にすることはこのワシが許さん!」
 黒い丸眼鏡のコックは、有無を言わせない。特にキルトに対して厳しかった。もしかしたらキルトを自分の弟子か何かのように考えているのかもしれない。今逆らったところで無駄なような気がしたキルトは、黙って魚をカゴに放り込む作業を続けた。
「……だがまあ、食わせて死人が出ても困るしな」
 コックがまともなことを言う。もう昼飯の下準備は済んでいるし、などと独り言を繰り返しながら、キルトを連れて階下へと降りていった。あとには一抹の不安が残った。
 ようやく息が整ってきた傭兵が、部屋に戻るか、と言って立ち上がる。他の皆も後に続いた。

「――あ、そうだった。帽子が飛んだんだっけ」
 金髪が潮風にふわふわと巻き上がるのを手で押さえて、そのことを思い出したラプラは、きょろきょろと見回した。船室に降りていく階段とは反対側、帆を支える支柱のそばに、帽子を見つける。
「あったあった」
 意外と遠くに転がっていたが、海に落ちていなくて幸いだった。
「そういえば額もケガしたんだったな。……いたたた」
 触ってみると血がにじみ、少し腫れていた。
「これじゃ、しばらく帽子はかぶれないなぁ」
 帽子を甲板から拾い上げて、ぱんぱんっと払う。
 すると、帽子の下から鳥の死体が一つでてきた。どうやら帽子に隠れていて、コックの目にとまらなかったらしい。放置しておくわけにもいかず、とりあえず厨房に持って行こうと思って持ち上げた時、ラプラは違和感を覚えた。
「……?」
 腹のあたりを剣でざっくりと切られている鳥は、おびただしい血を流していた。だが甲板にできていた血溜まりが、ラプラの見ている目の前で、ざわざわとどす黒く変色していく。確かに、赤い血も長時間空気中に置けば黒っぽく変色するのが普通だ。しかしまだ流れてから大して時間の経っていない血が、こんなにも急速に変色するだろうか。
 何か不気味な予感を覚えつつ、押さえきれない好奇心に負けて、ラプラはその血溜まりに手を伸ばした。右手の指先で、軽く触れてみる。
「……なんだ? このねばり気は」
 ねっとりと指に絡みつくような、血にしては妙な感触が、手袋ごしに伝わってきた。すっかり真っ黒になっていた血が、いっそう気色悪い。
 とたとたと近寄ってきたシエリが、肩ごしにのぞき込んで声をかけてきた。
「それはなんだ。鳥の血か? 魚の血か? それともおまえの血か?」
「鳥から流れた血だ。だけど……普通、鳥の血は、こんなふうにはならない」
「そうなのか」
 シエリは真面目な顔でうなずくと、自分も「どれどれ」と言って黒い血溜まりに手を伸ばす。あわててラプラが腕をつかんで止めた。
「やめときなさい。身体にいいものじゃなさそうだから」
 自分は手袋ごしだったが、なんとなく不気味な手応えだ。素手のシエリに触らせるのは良くないような気がした。
 それでも気がすまないのか、シエリは小脇に抱えていた長い棒のような包みの先で、なおも血溜まりをつつこうとする。ラプラは聞き分けのない子どもに言い聞かせるように忠告した。
「だーかーら。もう俺が触ってみたから、お嬢ちゃんはやんなくていいの!」
「違うぞ。よく見るがいい」
 シエリは冷静に指摘した。
 いったい何を、と思ってラプラがもう一度血溜まりを見ようとした時、それは跡形もなく消えてしまっていた。
跡形もなく。甲板の上に一つのシミも残さずに。
「え?」
 まばたきを繰り返すが、状況はそれ以上何も変わらなかった。
 あわてて、手に持ったままだった鳥の方を見る。腹の真っ白な羽毛に、切り口にそってべったりこびりついていた血糊は、黒く変色するどころか、傷口だけを鮮明に残して、やはりきれいさっぱり消えて無くなっていた。
「……なんだって?」
 ラプラは構わず、切り口から腹の中に手をつっこんだ。しかし、引っ張り出した臓腑や周囲の肉壁からも、もはや一滴の血も流れはしなかった。
「黒い粉が、風に飛ばされるように消えていったぞ」
「お嬢ちゃんは、消えるところを見ていたのか?」
「お嬢ちゃんではない、シエリだ」
 律義に訂正するが、今は構っていられない。
「粉……? さっき触った感じだと、黒くなった血はねっとりしていたんだが……」
「ざぁっと、流されるように細かい粉になって消えたぞ。あれは灰に似ていた」
「灰……」
 何かの記憶が、ラプラの脳裏をよぎった。だがそれが何だったか思い出す前に、下から昼食が出来た事を告げる声が掛かる。
「もう昼か。……さすがに、この気色悪い鳥や魚を調理したってことはないだろうけど」
 考え込むラプラの横を通って、あまり感情表現の豊かではないシエリが、こころなしか嬉しそうな足取りで階段を下りていく。食べるのが好きなお嬢さまだよなぁ、と呆れつつ、ラプラも後に続いた。手に持ったままの鳥をしげしげと見たが、やはりどこにも血の跡は残されていなかった。

 自分は先に船長に報告してくるから、と言ってシエリを先に食堂へ行かせ、ラプラは船長室でブランガルと言葉をかわした。無断で船に乗り込んだ事についてたっぷり文句を言われるのを覚悟していたが、意外とうるさいことは言われなかった。シエリについては、あんな小さな子供をこんな危険な船に乗せるなど良識ある大人のすることでは無い、と言われてしまったが、そのシエリが乗ると言って譲らなかったことは、今はだまっておくことにした。
最後にただ一言、「謝礼は出せないから、そのつもりでいてくれ」とだけ釘を刺された。ラプラにしてみれば、そんなものは最初から期待していない。自分とシエリ、二人そろってほとんど戦力にもならないことを自覚していたから、どちらかと言えば無賃乗船のようなものなのだ。ブランガルの言葉はじつにありがたいものだったが、あまり喜んで下手に出ると逆に乗船料を払えと言い出されてしまうかもしれない。『謝礼が目的ではなく、微力ながらも手伝いがしたかっただけ』というようなことをもっともらしく言っておいた。
 それから抱えていた鳥を差し出して、さきほど甲板で目撃した事実をその通りに説明した。
「血が黒く変色し、それが灰になって消えただと?」
「あれはただの変質とは言えない。確証はまだないんだが、俺の経験で言わせてもらえば……」
「なんだ? なんでも言ってくれ」
 ラプラは、港町ディオンで噂を集めた時に感じた嫌な予感を、今ふたたび感じていた。
「魔法がかった何らかの力が、この海域に働いているんじゃないかと思う」
「いったいどんな魔法を使えばこんな事態が起こる?」
「――今は、虚月だな」
 急に話が変わった。ラプラは、確認するようにブランガルの目を見る。
「虚月については、昔からいくつもの伝承がある。もちろん船長もそういう話には詳しいと思うんだが、たとえば――黒月《ラムダ》について」
「虚月の頃に空に浮かんでいると言われている、漆黒の月の話か。それに関しての伝承は数え切れないほどあるな。シータとエータの三番目の姉妹月だとか、シータとエータを不幸にした国王の呪詛のかたまりが月になったとか、魔族を無尽蔵に産み出す魔力の源泉だとか……まぁ、いい話は少ないがな」
「じゃあ、もしも。あくまでも『もしも』の話なんだけど。それが単なる伝承じゃなくて、本当に黒月は存在している――としたら?」
 ブランガルの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
 そんなものは単なるおとぎ話だ、と言い切ってしまうこともできる。実際、本当にそんな月が存在しているかどうかを真面目に考える大人は少ない。虚月の3ヶ月のうちに何か良くないことが起きると、人々は伝承にだけ姿を表す黒月にその責任を押しつける、その程度の存在のはずだった。
 だがラプラの言葉とともに、ブランガルは亡き親友ジークの最期の言葉を鮮明に思い出していた。
 彼は何と言った?
 彼は何を自分に言い遺してくれた?

『――《月》を、見ろ――』

 あれは、何の月のことを言ったのか。シータか? エータか? 
 ブランガルはずっと考えていた。
 だがもしも、ジークの言った《月》が、そのどちらのことでもないのだとしたら。





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