第1章 見えない月の導き


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 船が港の中にいる時から、何だか変な気持ちだった。足元が落ちつかず、まっすぐに立とうとすればするほど視界が歪む。
出港して船が外洋に出ると、状況はますます悪化した。
信じられなかった。
 なぜこんなに地面がぐにゃぐにゃうねうね動くのか。
 ああ、ちくしょうめ。もともとゆがんだツラしてたやつが今はますますぐにゃぐにゃに見えやがる……。

「あら。起きてたの?」
 船室の戸を開けて、ルツが入ってきた。声で分かる。よくわからないが額にひんやりしたものが当たった。
「今……何時だ……?」
 うっすら目を開けると、室内がかなり暗いこと、開いたままの戸からまぶしい光がさしていることがわかった。だが昼の光か夜の明かりか、判断がつかない。時間感覚が狂っていた。
「1時。といっても夜中よ」
 昼食を食べた覚えはない。いや、もっと前の記憶からあやふやだった。最後に覚えているのは、出港後すぐにあった小さな戦闘だ。ということは、15時間も意識がなかったということか。
 ウォンは悔しくて歯ぎしりをしかけたが、頭にガンガンと響いたのですぐやめた。
「お腹は空いてる?」
「……っかんねぇ」
 何も食べてないのだから空腹のはずだが、食欲はなかった。何か食べたとしても胃が受けつけないような気がする。
「ここまでひどい船酔いになるんだったら、乗る前に言えばよかったのに。酔い止めの薬だって、酔う前に飲むのと酔ってからじゃ、効き目も全然違うのよ」
 あきれたような口調だったが、なんとなく普段より優しく聞こえた。意識のぼんやりしていたウォンの気のせいかもしれないが。
「オレだって、んなこと知らねーよ……船なんか乗ったこと、ねーし」
 答える声が、どうしても力無くかすれる。
「仕方ないわね。起きたならちょうどいいわ。これだけ食べて、これ飲みなさい。寝て起きたら楽になってるわよ」
 何かドロッとしたものが入った皿と、コップに入った水、それから薬包一つが枕元の台の上に置かれた。
「食いたくねぇ」
「何も食べないで薬飲んだら後悔するわよ」
「病人を脅すか、ふつー…」
「あら、病人の自覚があるの? だったら医者の言うことにはおとなしく従いなさい」
「誰が医者だ」
「いいから、黙って、食べなさい」
「あが、がが、んがっ」
 ルツが口をこじ開けて強引に食事を流し込もうとする。暴れようにもろくに力が入らず、むせないように気をつけて飲み込むのが精一杯だった。
「おいしかった?」
「……、……、さぁ」
 味なんか分からなかったが、少なくともまずくはなかった気がする。なんだか胃のあたりに生まれた存在感がに気持ち悪かった。
「次、薬ね。ほら口開けなさい」
「待てって。自分で飲むっつの」
 無理やり腕を伸ばしてコップをつかむと、ウォンはなんとか自力で薬を飲むことができた。横になったまま口の中に水を流し込まれたら、今度こそむせるに決まっている。
 苦い薬だった。よくわからない味だが、とにかく口いっぱいに嫌な味が広がって、思わず吐き出したくなる衝動に駆られた。
「ちゃんと飲み込みなさいよ? その船酔いの薬、わざわざ私が調合したんだから、吐き出しでもしたら鼻から飲ませるわよ」
 言われたウォンは、鼻から吹き出すかと思った。本気だ。ルツは本気だった。やると言ったら本当にやるのだ、ルツは。そういう人間なのだ。長くはない付き合いだが、ウォンはルツの本性をそう見ていた。
 ようやく完全に飲み終えた時には、かえって具合が悪くなったような気がしていた。
「なぁ、これ……本当にマトモな薬なのかよ?」
「当然よ。私が調合したんだから」
 だから余計に怪しいのだ、とはウォンは言えなかった。
「それじゃあ、寝てなさい」
 食器をのせた盆を持って出て行こうとするルツに、ウォンは気になったことを聞いてみた。
「あの戦闘、結局どうなったんだよ?」
「あんたが倒れた頃にはだいたいカタがついてたわよ」
 戸がぱたんと閉められ、部屋の中は再び真っ暗になった。
 ウォンは少しはっきりした意識の中で、今朝の戦闘を思い出していた。
 奇妙な闘いだった。少なくともウォンは、あんな敵を相手に戦ったことは今までなかったし、他の誰も経験がなさそうだった。出港して1時間も経たないうちに、《シルフィア号》は、魚の群れに襲われたのだ。
 魚が船を襲うことは滅多にない。というより、まずありえない。ふつうの魚であれば、船に気づけば遠ざかっていく。大型で特に獰猛な種類であっても、よほどの理由がない限り船を襲うことなどまずない。ましてや群れで行動する種類の小魚が、船や船上の人間にまで襲いかかってくるなど、聞いたこともない事態だった。
「あのサカナ、なんか普通じゃなかったよな……人間狙ってたぞ、絶対」
 船が初めてのウォンでも、異常事態であることくらいは肌で感じた。どう対処すればいいのかまったく分からなかったが、ウォンにとってはいつもとあまり大差はない。常に全力で向かっていくだけだ。覚えている限りでは、4、5匹の魚を叩き落したような気がするが……。
こまかな様子を思い出そうとするウォンを、急激な眠気が襲った。久しぶりに胃に食べ物を入れたせいか、それともさっきの薬に何かそういう類いの薬草でも入っていたのだろうか。
 昼間の回想と夢うつつの中で、ウォンはしだいに眠りへと引き込まれていった。

     *

 水面から勢いよく飛び出した魚が、水飛沫とともに弾丸のように襲いかかってくる。それも数匹ではない、何十匹もの集団だった。
 小魚といっても両の手のひらを広げたほどの体長で、頭部の骨が丈夫だから、それがものすごい勢いで飛び掛かってくれば生身の人間は打撲で済まない。その時たまたま甲板で作業をしていた船員の一人が、運悪く首筋に大怪我を負った。
 甲板上の悲鳴と異様な物音に気がついた何人かが、武器を手に飛び出してなんとか魚達を船から遠ざけようと奮闘した。
「槍使いのお兄さん、傭兵稼業が長そうだけど、こういう事ってよくあるのかい?」
 ラプラは襲いかかる魚の一匹をナイフですっぱりさばきながら、隣で槍を振り回している傭兵に声をかけた。
「魚が船を襲う事か? ――あってたまるか!」
 長い柄が斜めに空中を横切ると、4、5匹が一網打尽になぎ払われた。本来の槍の使い方とはずいぶん違っているが、この場合には有効な戦法だった。相手は小振りの魚、甲板に叩き落としてしまえばとどめを刺すまでもない。
「なるほど、そのほうが手っ取り早そうだな」
 だがラプラの武器はナイフを中心とした飛び道具ばかりで、一匹ずつしか対応できない。
 もう一人、効率よく魚を撃退している傭兵の男がいた。武器は一つも持っていなかったが、見事な体術で襲いかかる魚を払い落としていた。身体には傷らしい傷もほとんど見当たらない。
「これは……君たちに任せて俺は下がっていた方がいいかもな」
「そうしてくれてもかまわんが――」
 言いながらも数匹をなぎ払って、一息ついたところで槍使いの男はラプラのうしろを指差した。
「あんたはそいつを安全なところに引っ込ませた方がいいんじゃないのか」
「――お嬢ちゃん!? 何してるんだ、こんな危ないところで」
 振り返ると、なんとシエリが甲板に出てきていた。状況が理解できていないのか、魚の群れにはまったく注意を払わずに、ただぼうっと空を見上げている。
「危ない! 船室に入ってろ!」
 近くにいた戦士ふうの傭兵に肩をつかまれるが、それにも構わずにじっと空中を凝視している。
 いや……ラプラには、じっと耳を澄ましているように見えた。
「おい、聞こえないのか!?」
「――何か来るぞ」
 シエリが、つぶやいた。
 甲板にいたほとんどの人間はその言葉を聞き流したが、ラプラだけは昨日の港での出来事を思い出した。突然あらぬ方角を見つめて変なことを言い出したシエリの言葉は、正しかったのだ。
 もしかしたら……。
 ラプラもシエリの見ている方をちらっと見上げた。この少女には、普通の人間には見えない何かが見えるのか、それとも聞こえるのか。理由はよく分からないが、鋭敏な感覚を持っているのではないか、とラプラは考え始めていた。
まさか、と思いながら青空の中に何かを探すラプラの眼に、黒い小さな影が映った。
「空からも、何か来る!」
 ラプラの声につられて、その場の全員が空を見た。
 さんさんと輝く太陽の中に、何かの影が見える。眩しさに思わず目を細めた。
「鳥か?」
 ぐんぐん近づいてくる黒い影は、見たところ海鳥のようだった。その数、およそ20羽。
「……槍使いのお兄さん、長い傭兵稼業の中で、鳥が船を――」
「あるわけが、ないだろうが!」
 ふたたび尋ねたラプラがすべて言い終わる前に、傭兵が叫び返す。
 海からは魚が、空からは鳥が。なぜ船を襲うのか。甲板にエサになりそうなものが放置されているわけでもないし、彼らの領域をことさら荒らしているわけでもない、通常の航路を通っているのに。
 ラプラはとりあえず的が大きく、魚と違ってなぎ払うだけでは効果が少ない海鳥の方に狙いを定め、ナイフを構えた。
 その時、船室の階段をウォンが駆け上がってきた。
 甲板に飛び出すやいなや、ばっと上下左右を見わたすと、一瞬で状況を判断したようだ。背のホルダーから剣を抜き放つと、空の海鳥の方に向かって構えをとった。確かに剣ならば魚より鳥を相手にする方が効果的だと思える。
 ちら、とラプラはウォンを見た。あきらかに自己流で腕を磨いてきたと思えるような、ほとんどでたらめな構えだった。だがそう見える反面、ぐっとタメがあったり、脇がきっちりしまっていたり、と意外に基本ができているようにも見えた。
 ……昔、誰かに基礎を教わったのかな?
 ラプラはそう結論づけた。こんな状況だというのに、長年の旅で染みついた人間観察のクセはなかなか抜けない。
 ふたたび意識を襲撃者の方に戻し、最初の1羽に向けてナイフを鋭く放つ。見事に喉を貫かれた鳥が甲板にどすっと落ちる。
「危ねえ!」
 その背後からラプラに襲いかかってきた2、3匹の魚をウォンがめちゃくちゃに叩き落とす。1匹だけその剣をくぐりぬけた魚が、とっさに振り向いて身構えたラプラの額をかすめる。緑の帽子が弾き飛ばされて、甲板の上を転がっていった。
 槍使いの傭兵の繰り出した槍が、頭上からせまっていた鳥を串刺しにし、そのまま振り下ろした勢いで魚も何匹か払い落とす。さすがに傭兵業で慣れているのか、流れるような一連の動作には無駄がない。
「……ええい、面倒くさいっ」
 いちいち一本ずつ構えて1羽ずつ撃ち落とすのが面倒になったラプラは、袖口から一気に4本のナイフを滑らせて、両手の指と手のひらを器用に使って構えると、まとめて宙に放った。
「おいおいおい! いくらなんでもそりゃ無茶だ!」
 見ていた傭兵が思わずつっこむ。
 しかしこれがものの見事に3羽に命中。残る一本も魚に当たると、まとめて甲板に落下した。
 実はラプラもここまでうまく当たるとは思っていなかったのだが、せっかく当たったので当然のような顔をしておくことにした。
「この調子で乗り切れば、なんとかたいしたケガ人も出ないで追い払えそうだな」
 少し楽観的な気持ちで、次のナイフを構えようとした時、ラプラの背後でどさりと音がした。
 鳥や魚にしては重量感のある音だ。
 おかしいと思って振り向いたラプラが見たのは、倒れたウォンの姿だった。
「え?」
 真っ青な顔で額に汗を浮かべている。
「まさか……何か、新手の魔法攻撃が?」
 ラプラをはじめ、甲板にいた男たち全員に緊張が走った。
 一人だけ、冷静にウォンに近寄った人物がいた。ルツだ。いつの間に甲板に出てきていたのか、誰にも気配をつかませなかった。
 ルツはウォンの額に手を当て、首筋に指を押し当て、目をぐりっと開いて何か確認すると、うなずいて立ち上がった。ぱんぱんっとヒザについたほこりを払いながら、おごそかに告げる。
「ただの、船酔いだわ」
 ウォンの記憶は、そこで途切れた。





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