第2章 馬車に揺られて


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 息が整い、ラプラ、ウォンは雨水でどうにか苦い薬を飲み込む。得た情報を整理しようとしたところで、すぐそばの茂みがガサリと音をたてた。
 今度こそ、と構えた6人の前に2匹の兎が姿を現した。また騙されたとウォンががくりと肩を落としたところで、6人めがけて兎たちが急に突っ込んできた。虚を突かれたが、それでもどうにかそれを避けると、兎たちは後ろの岩壁に勢いよく激突して動かなくなった。
 額から流れ出した黒い液体を見て、6人はまだあの禍々しい存在から逃れきっていない事を否応なく思い知らされる。
 そこに、続けて再び黒い蝶が1匹姿を現した。ルツは壁に激突した兎のうち、まだわずかに息のあるものをそっと持ち上げると、ひらひら不規則に舞う黒蝶に触れぬよう注意をはらいながら、岩陰から離れた地面に横たえた。ルツは予想される事態を思って心の中で小さなその生き物に詫びる。
 6人が見つめる中、決定的な事態が起こった。
 ひらひらさまよっていた蝶がだんだんと引き寄せられるように兎に近づき、その耳にとまった。そして間もなく、それはまるで兎の皮膚に溶けこむように消えていく。直後、今まで虫の息だった兎は奇妙に痙攣した後、何事もなかったかのようにむくりと起き上がった。
 その後は先ほどと同じだった。
 2度目の激突で今度こそ兎は息絶えた。
 急に空気が冷えたように感じたのは、雨でびしょぬれになった衣服が、体温を奪うせいばかりではなかった。


 雨は止まぬまま夜が来る。その間も凶暴化した森の動物と黒い蝶の襲来は続いた。むしろ夜が来るとその間隔が短くなるようだった。
「黒魔法は夜の方が強くなる。特に今は虚月だから余計に……」
 どこか気まずそうにラプラが言った。知っておいた方がよい知識ではあったが、自然と疲労の空気が濃くなりため息がもれる。
「でも逆に考えると、これだけ奴らにいい条件がそろってるのに、無作為に動物を凶暴化するしか手立てがない、と言う事よ」
 奴らが29日にセイズの森に向かっているという情報を信じるならば、あと、2、3日耐えれば逃げ切れるかもしれない。安心材料のつもりで口にしたルツだったが、この疲労困ぱいの状態で『2、3日』は途方もなく長いように感じられ、自らの言葉にため息をついたのだった。

     *

「……グズベリさま。もう、これ以上は……」
 セイズの森の古びた小屋の中だ。狩人や旅人が休憩に使うような簡素なつくりの小屋だ。そこで、ずっと気配を殺し、無言のままグズベリの側にいたロマが、二十数時間ぶりに慎重に口を開いた。
 雨をしのぐため、また定められた時に目的地の側にいるために、2日前からこの小屋にいる。グズベリは目を閉じたまま、始終ぶつぶつと口元で呪詛を唱えていた。
 日付が29日に変わってから、半日が過ぎた。時間がない。間に合わなければ、根城に帰るための近道は当分の間、通ることができなくなる。
「あと2時間ほどで……」
「おだまり!」
 パンッと乾いた音をたてて、グズベリの白い手がロマの頬を叩く。閉じられていたまぶたが開けられ、グズベリの緑の瞳が殺気をたたえてロマを見据えた。ロマは微動だにせず黙ってグズベリの視線が外されるのを待った。やがてふいと興味をなくしたようにそらされたグズベリの瞳。ロマはちらりとそれ見やる。
眼の本来白くあるべき部分は真っ黒に染まっていた。白い肌にざっくりあいた不気味な黒い隙間に、奇妙な緑の玉が浮いているように見える。
 ロマはごくりと次の言葉を飲み込んだ。
 グズベリの不気味な能力―――、大量の黒い蝶を広範囲に飛ばして生き物を凶暴化させる力は、対象を認知する能力としては使い勝手が悪かった。広範囲で強力ではあるが、対象に蝶が触れるまでは、相手を一切知覚することができず、いったん知覚すると今度はあらゆる対象の中から目的のものを見つけ出すのに労を要する。ぼんやりと意識の闇に浮かぶ輪郭と、個体そのものがもつ生命の色のようなもので判断するしかないのだ。
 例え今あの6人を認識したとして、皆殺しにしてここまで戻ってくるのは不可能だ。今できることは、せいぜい同士討ちになることを願うことくらいだ。
 ふとロマの視界に赤い光がちらついた。その視線でグズベリもそれに気づく。
 グズベリの細い腕にはめられていた赤い腕輪が光を放ち始めていた。忌々しげに見やったグズベリは盛大に舌打ちをすると、再びまぶたを閉じて、先ほどとは違う呪を唱える。ロマはそこら一帯に満ちていた圧迫感が、ふと消え去ったのを感じた。
 ロマはグズベリがまぶたを開け、黒色が消え去ったのをちらりと確認する。すっと無言で立ち上がると、小屋の扉を開けた。雨はとっくに上がり、青空が広がっていた。扉を押さえたまま一歩下がり、無言でグズベリが小屋を出るのを待つ。
 ふんっと面白くなさそうに鼻を鳴らしたグズベリが、足音もなくのそりのそりとロマの前を通り過ぎる。ぎろりと、射殺そうとでもするような視線を横目で送ってくるが、わずかに頭を下げたまま、ロマはそれをやり過ごした。
 グズベリの後に続いて外に出たロマは、ふと小屋の中を振り返る。そこには運悪く小屋に居合わせてしまった数人の旅人―   ―――いや旅人だったものたちが折り重なって放置されていた。
 ロマは感情の感じられない一瞥を送ると手のひらを突き出し口元で何か呟く。次の瞬間、黒い炎が死体の山を包んだ。
ばたりと扉を閉められた小屋の中、炎は静かに揺らめいて、大量の黒い粉を舞い上げる。死体はあっという間に燃え尽きて、舞っていた粉も木の壁に溶け込むように消えていった。弱々しくなった炎は、黒いしみをその場に残してふつりと鎮火した。



 数時間後、セイズの森で起こった不思議な光景。それを目にしたものはいなかった。奇妙な2人連れは、深い森の奥で姿を消した。静かな森に、何の前触れもなく突然出現した、赤白色の光とともに。





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第2章 馬車に揺られて