第2章 馬車に揺られて


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 土砂降りの雨の中、2頭の馬が狂ったように地面を蹴って馬車をひく。白目をむき、破裂するような音を立てて荒い息をつく馬のその速度は、常識などとうに超えていた。
荷台ごと馬車が大きく跳ね上がる度に、車輪は空回ってがらがらと音をたてた。先頭を走る馬の足からバキッとひどい音がしたが、手綱を握ったロマは気にも留めない。足が1本あらぬ方向にねじれた馬は、それでも崩れる様子はなかった。
 四角の木の支柱に麻布を張っただけの簡素な荷台の中を、ロマは気配を殺して振り返る。
 黒いマントと帽子の隙間からのぞいている緑の瞳が、ずっと前方を凝視してぎらついているのが目に入った。その手には赤い石のついたペンダントが垂れている。馬車の揺れを無視して、それは一定の幅で大きく左右に揺れていた。
 広場でペンダントの揺れを確認した時は、最初に会った金髪の男と、黒髪の女に反応していた。
 おそらく黒魔法を使えるらしい金髪の男が、ペンダントと対にして追跡魔法をかけた物を持っていたのだろう。
 ロマはぎりっと歯を食いしばった。
 さらった子供が呼び出したらしい、妙な獣がつくった幻から抜け出して道に出た時、停めてあった馬車の姿はどこにも無かった。代わりに見張りをしていたはずの男が横たわっていた。一本道に出来た、まだ新しいわだちは、ユトの街とは逆の方に向かっていた。グズベリとロマは、運悪く通りがかった商人を消し去り、当然のごとく馬車を奪ってそのわだちを追った。
 走り始めた時は小さく揺れていたペンダントは、一本道をものすごい勢いで進むにつれて、どんどんその振れ幅を大きくしていった。
 馬鹿め。わざわざ標を持ったまま移動するとは……。
 ロマは先ほどの忌々しい出来事を思い出し、心の中で悪態をついた。グズベリほどに相手を舐めてかかり油断していたわけではなかったが、まさか形勢を逆転されるとは思っていなかった。魔法剣を使う人間がいた事は意外だったが、剣術、魔法力ともに自分の敵ではなかった。
 それがあの子供のせいで……。
 だから余計な事に手を出したくないのだと、ロマは色々な憤りがふつふつと腹の辺りで熱くなるのを感じたが、うかつな行動をとらないよう細心の注意をはらって馬を御する。いくら自分でも、今グズベリの反感を買えば、無事では済まないことは明白だった。
 グズベリの八つ当たりは死に直結する。
 短くはない付き合いの中でロマが学んだ事だった。現に森を抜けたところで気を失っていた馬車の見張り役は、弁解の余地もなく、グズベリの視界に入った瞬間に消された。


「近いわ」
 グズベリが低く言った直後、前方に見覚えのあるほろ馬車が走っているのが見えた。ちらりと振り返ったロマの目の前を、黒い矢のごとく攻撃魔法が抜けていく。それはあっという間に前方の馬車に届き、ほろ馬車の左の車輪を荷台ごと大破させた。荷台は引きずられ、驚きバランスを崩した馬が1頭、また1頭ととその場に倒れ、馬車は横倒しになって止まった。
 ほろ付の荷台もろとも八つ裂きにしてやろう。魔法剣を抜きながら勢いよく飛び出していったロマは、馬車の側まで来て忌々しさで顔を歪めた。
 ほろ馬車の中は無人だった。
 同じように怒りで鼻筋を引きつらせたグズベリが、無言でやってきてホロ馬車の中をのぞきこむ。散らばった荷の中に黒い石を見つけ、節くれ立った白い指がそれを拾い上げた。明らかにペンダントに反応している魔石の流れを見て、グズベリの怒りは頂点に達した。パンッと音を立てて魔石が粉々に砕け散る。
 グズベリはペンダントを懐にしまうと、撃たれて傷を負った左手に再度爪をたてる。黒い液体が再び流れ始めた手を、そのまま握りこんだ。ロマが止める間もなく、グズベリの血色の悪い紫の唇が、呪文が唱え始める。ロマは後ろに飛びのいて、自らを守るための防御魔法を素早く自身に施した。
 雨の音にかき消えそうなほど低い詠唱を終えると、グズベリは握りこんだ手をゆっくりと開いた。途端、まるで手のひらから湧き出るように黒い蝶が溢れ出す。途切れることなく次から次へと宙に舞い上がる黒い羽。頭上を黒く覆いつくすほどに生み出された、おびただしい数の蝶は、グズベリがふい、と手をひるがえすと四方八方にひらひらと散っていった。
 雷鳴が響き渡る雨の森を、無数の黒い蝶が舞う様はひどく奇妙で不気味な光景だった。

     *

 どれくらい走っただろうか。何度目かに限界を感じたところで、ちょうどよく現れた岩陰に、ウォンたちは迷わず転がり込んだ。衣服は雨水を含んでぐっしょりと重くなり、走り続けた足は強張って、しばらくは立ち上がれそうにない。呼吸をする度に胸が痛み、はりつく様に乾いた喉はぜいぜいと音をたてた。
 耐え切れなくなったラプラは、悪化した胸のけがを押さえてうめく。ここまでどうにか平静を装ってきたものの、先ほどの戦闘、その直後の全力疾走、今は心臓の振動でさえも響いて辛かった。
 ふと目の前に影が下りる。顔を上げれば隣にいたルツが、まだ荒い息使いのまま、無言で薬草の袋を差し出していた。おそらく痛み止めだろう。ルツはさらにもう一袋取り出すと、少し離れた所で腹の傷を押さえたまま息を整えているウォンに、それを放った。
 グズベリとロマが幻に囚われている隙に、森を抜けて馬車に乗り込んだ6人は、10分と経たないうちに馬車から降りて脇の森に駆け込んだ。シエリから、常識では考えられない速度で走る馬の話を聞いたルツが、即座に下した決断だった。
「それで、何故29日に、セイズの森に、向かってるって、わかったの?」
 肩で息をしながら、ルツがキルトを見やる。キルトも走りづめで辛そうだ。岩壁に背を預け、あごを上げて息を吸い込んでいる。
「見張りが……、馬車の見張りが、急がないと、間に合わないと。セイズの森に、29日に着かなければ、もどれないと。話してるのを、影で聞いた」
 ふーっと大きく息を吸って吐いて、キルトはシエリに視線を向ける。おまえも聞いていただろう、という無言の問いが、珍しくシエリに伝わったようだ。
「うむ……。月の、ゲートが……」
 そこまで何とか言葉を紡ぐと、けほけほと肩を揺らし咳き込む。何も言わず黙って着いて来ていたシエリだったが、こんなに走ったことなどない。もはや体力の限界だった。ルツは木のうろに溜まった雨水を手持ちの皮袋にすくうと、シエリの小さな背中をなでて飲ませてやる。
 ラギはもう息を整えたようで、走ってきた森の中を無言でじっと見つめていた。その脳裏には、先ほどの黒の魔法剣を使う男が焼きついていた。
 強かった。魔法剣の差ではない。一対一で戦って、今の自分で制することができる相手とは思えなかった。
 それに、とても深く暗い瞳の人だった。クラーケンと闘った暗い海のような、底知れぬ闇が瞳の奥にのぞいていた。剣を合わせたときに感じたのは……しびれるような憎悪。
 ラギの心中に拭えない黒い不安が芽生える。

 今追いつかれてしまったら、皆を守れないかもしれない。

 いつも微笑みを絶やさないその表情が珍しくかたい。ウォンはその変化を敏感に感じ取り、改めて先ほどの敵と自分との途方もない力の差を思い知り、ごくりとのどを鳴らした。今日1日で何度か命を落としかけた。さらに、まだ危機は過ぎ去っていない。
ウォンもラギの視線の先、また雨脚が強くなっていっそう暗くなってきた木々の向こうをじっと見つめた。
その横でルツもまた雨の森を見ていた。
 無人でも前に進むよう、馬の尻に簡単な仕掛けをした後、ルツはウォンから魔石を取り上げ、ほろ馬車の荷に紛れ込ませた。これから相手の目をくらまそうと言う時に、ウォンは目印を大事に上着のポケットにしまったまま森に駆け込もうとしたのだ。うかつにも程がある。
 ペンダントはまだグズベリたちが持っているはずだ。ユトの街中での反応からして、ペンダントと対にして魔法をかけた魔石の位置を把握できるのは確実である。しかし―――――
 あんなもので騙せるかどうか……。
 馬車を捨てて走り、森の奥へ奥へと急いだ。大分道から離れた今も、ルツの不安は消えなかったが、未だに他の策は浮かばなかった。これが現在考えられる最善の策であった。
さらに不安な事に、グズベリたちが29日にセイズの森に行くという確証は無い。シエリが口にしかけた『月のゲート』。実は、ルツには大いに心当たりがあったが、どれも憶測の域をでない。確実な安全要素はなかった。
 ルツはあいまいな考えを打ち消すように頭を振った。
 とにかく今は全力で逃げる事に集中しなければ、半日すらたたないうちに命運が尽きてしまうかもしれない。
「何か来るぞ……」
 目を細めてつぶやいたウォンの一言に、ルツは思考を中断して神経をはりつめる。
 まさか、もう見つかったのか。
 息をひそめた6人の前に現れたのは1匹の黒い蝶だった。
「なんだよ。びびらせんなよ……」
 ウォンは大きく安堵のため息をつく。同じくキルトも大きく息をついて首をふった。
 しかし、ルツとラプラはじっと蝶を凝視したまま動かない。
「やつらだと思う……?」
「ああ……」
 たかが蝶だろう、とウォンは怪訝な顔をする。
「こんな雨の中、あんなに平然と飛んでる蝶なんか見たことないわ……。普通は葉とか木の陰で雨宿りをするもの」
 6人が注視する前で、蝶はさまようようにあちらこちらに移動した後、また遠くに消えて行った。
「様子を見るしか……ないか……」
 ラプラのつぶやきにルツがうなずく。ここで下手に手を出そうものなら、何が起こるかわからない。
 ルツは心の中で、こちらの位置を検知する類のものではない事を願った。願うしかなかった。
 その得体の知れない黒蝶の意味がわかるまで、そう時間はかからなかった。





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