第2章 馬車に揺られて
今にも黒魔法を放とうとしていたグズベリの左手に、弾丸が見事命中する。衝撃で白い手は大きく左に弾かれた。黒いもやは行き場をなくして、その場でふっと霧散した。
「そいつは殺してもいいが、他の奴らは解放してもらう」
走って来たのだろう。6人から少し離れた森の中に、緊張した面持ちのキルトが、肩で息をしながら立っていた。
「おのれ……!」
グズベリとロマの気がキルトに向けられた一瞬を這いつくばっていた4人は見逃さなかった。
ウォンがグズベリの足をつかんだまま勢いよく立ち上がる。腹に激痛が走ったが、溜まっていた怒りがそれを凌駕した。
バランスを崩したグズベリの腹にウォンが思いきり拳を突き入れた時、顔のすぐ右で激しい音がした。いつの間にまた引き抜かれたのか、ロマの魔法剣がウォンの頭めがけて振り下ろされていた。が、ぎりぎりでそれを抑えたのは、これもまたいつの間に取り戻したのか、ラギの魔法剣だった。
ウォンはラギににやりと笑うと、グズベリが落としたホルダーを拾い上げて走る。走りながら素早くホルダーを装着した。
「うっし! ぅぐっっ!」
ホルダーを取り戻して気合の拳を握ったウォンだったが、ぐっと力を入れた腹にまた激痛が走り、思わずまた意識を手放しそうになる。もつれそうになる足にぐっと力を入れて、どうにか踏ん張った。
その時ざわりと首の付け根に鳥肌が立った。
勢いよく振り向くと、グズベリと目が合った。ウォンに殴られた腹を抱えたままの体勢で、ものすごい形相でこちらをにらんでいる。
ウォンは逃げだしそうになる足を、どうにか地面につなぎとめ、その場であたりを見回し、剣を探した。
ない。やばい、どこ行っちまったんだよ!
焦りで心臓がばくばくとうるさいほどに脈打つ。ただでさえ勝ち目のなさそうな相手に丸腰で向かっていくほどには、ウォンの生存本能は鈍っていなかった。
ウォンを見据えたままグズベリが近づいてくる。まるで縫いとめられたように、ウォンはその場から動けない。
一歩、また一歩と近づいてくるグズベリの白い腕が、ウォンに伸ばされた時だ。グズベリとロマめがけて、ラプラのナイフが放たれる。ラギと剣を合わせたままだったロマは、ラギの剣を無理やり押しのけると、すんでの所でそれをかわした。ラプラをぎろりと視界に捉えたグズベリとロマの顔面めがけて、間髪入れずルツの針が空を切って放たれる。短く呪文を唱え、手のひらを宙で滑らせたグズベリの前に、灰色がかった透明な壁が出現してルツの針の勢いを失わせた。
パアンッッッ、と再び銃声を響かせて、遠くからキルトの援護射撃が入る。
しかし、ルツの針の勢いを奪ったグズベリの魔法は、弾丸の勢いまでも殺した。ぽとぽと、と力なく地面に針と弾丸が落ちる。
役目を果たした壁がすっと消え、グズベリの手のひらだけが残った。
そこで目にした光景に、近くにいたウォンは目を疑った。
「何だよ、その血……!」
グズベリの白い手。キルトが弾丸を命中させたそこから流れる血とおぼしき液体は、赤ではなかった。どんよりとした森の暗さを差し引いても、それは見覚えのある黒い液体。流れ出たそばからそれは細かな粒子となって宙に消えて行く。
「ウォン!!」
ルツの声にウォンは、はっとする。
いつの間に離れたのか、木々の間からルツが叫んでいる。
見回せば、ロマと剣を合わせたラギと自分しか残っていない。
くそ……!
ウォンは奥歯をかみしめた。
眼前のグズベリの手に、またあの大鎌がもやもやと形を成し始める。
勝てない、と頭ではわかっている。剣も持っていない上、腹の傷も痛む。しかし体はなかなか逃げの体勢をとろうとしない。
先に行って、というラギの声も聞こえたが、闘争心と本能的な恐怖がぶつかり合い、前にも後ろにも動く事が出来ない。
その間にもグズベリは大鎌を揺らめかせながらウォンの目を見すえて近づいてくる。
ふいに右手に熱さにも似た鋭い痛みが走った。ほぼ同時に後方で銃声が聞こえた。
「そこの間抜け! 邪魔だ!」
キルトが叫ぶ。グズベリとほぼ直線状にいるとは言え、弾道からしてそれは明らかにウォンを狙った一発だった。
「てんめぇ! 今度こそぶっ殺してやる!!」
一気に頭に血が上り、ウォンは勢いよく身をひるがえしてキルトに向かって突進して行く。
突然の勢いに、グズベリの攻撃がわずかに遅れた。ひるがえった上着の裾を黒い鎌がかするが、ウォンは気付かない。
「上手いわ、キルト! もういいわ、行くわよ!」
無事切り抜けたのを確認しルツも走り出す。ものすごい勢いで向かってくるウォンに舌打ちをすると、キルトも走り出した。ウォンの後ろから、器用に修羅場を抜け出したラギも駆けて来る。
追ってきたロマの放った黒い炎が、あとわずかでラギの後ろ髪に届こうとした時、地面から扇状に人の丈を超える黒い壁が伸び上がり、それを遮った。
「ありがとうございます」
防御魔法を発動するなり駆け出して横に並んだラプラにラギは微笑んだ。
「なんの」
後方の敵との距離を確認しつつ、ラプラが答えた。
その頃、前方ではルツがどうにか逃げ切るための手段を探していた。
「森を、抜けたところに、馬車が、あるのね?」
「ああ、4頭引きの馬車、だ。見張りは、眠らせてある。数時間は、起きないだろう。奴ら、29日に、セイズに行かなければ、ならないみたいだ」
急にまた全速力で走り、肺が悲鳴を上げる。キルトは要点を手短に説明した。
このまま全力で馬車まで走れば、あるいは逃げ切ることが出来るかもしれない。
素早く思考を巡らすルツに、思い出したようにキルトが付け足した。
「あの子供も乗せられていた」
息を切らせながらも、朗報にルツの表情がぱっと明るくなる。
「よかった……。それで、シエリは馬車で待ってるのね?」
「ああ、ほろ馬車に乗って待機してろと言っておい……」
言いかけたところでキルトとルツは急に立ち止まり、同時にがっくりと肩を落とした。
キルトに殴りかかろうと追いついて来たウォンは、二人のあまりの落胆ぶりに怒気をくじかれる。
「何だよ……、あ! シエリじゃねーか!」
前方に今まで散々探していた少女を見つけると、ウォンは無事で良かったな、と駆け寄る。その横を少女は返事も無くすり抜ける。肩を落とすルツとキルトの間を抜け、シエリは今まさに敵が迫ってきている方へと歩いていく。半日間床に転がされていたというのに、足取りはしっかりしていた。しかし―――――
シエリの足ではどんなに急いで走っても追いつかれるだろう。
一刻を争う逃げ道の途中にシエリの姿を見つけた途端、ルツとキルトが出した共通の見解であった。それでもわざわざ敵のほうに向かって行く事はない。
待ちなさい、とルツが声をかけたところで、シエリが抱えていた物からするすると布をはぎ取る。奪われていたのを取り返したのだろう。中から見事な造りの杖が現れた。こんな薄暗い森の中でもその美しさが分かるほど細かい造りの金細工に、赤と青の大ぶりの魔石がはめ込まれていた。
「奴らが追ってきているのだな?」
シエリの大きな紅い瞳が、きっと森の奥をにらんだ。まだ幼さの残るシエリに、これまでに感じたことのない気迫が溢れている。黒灰色の雨雲におおわれた森に立つ、小さな少女の大きな瞳に真紅のきらめきが宿った。
「どうする気だ?」
ウォンの問いには答えずに両手で杖を構えると、二つの魔石が結ぶ環を正面に向けた。
――――――赫風を渡る翼の使者よ
小さな唇が厳かに聞きなれぬ言の葉を唱える。
未だ雨の降り続いているユト郊外の森、遠くの方で雷の音が響いているのが聞こえる。ざわざわと森の木々が揺れた。未知なるものの予感にウォンが目を輝かせる。
――――――尊きものの名のもとに
静かに、だがしっかりと刻むようにとシエリは詠う。
杖にはめ込まれた赤と青の石が、共鳴しあうように光を放ち始めた。その神秘的な光景をルツもキルトも眼を見開いて黙って見つめる。根拠のない心強さに、馬車へ急ぐ事は不思議なほどに頭から抜けていた。先ほどまでの死が迫った切迫感さえどこか遠くに感じられた。
人が来る気配を感じてルツは、はっとシエリから森にと視線を移す。ラプラとラギ、そしてその後方にグズベリとロマが迫ってきているのが見えた。
ラプラとラギは前方で輝く赤と青の光の向こうに、半日探していた少女の姿を見とめる。
ルツ、ウォンの声が聞こえた。
ラプラとラギは標のように輝く光に向かって走り、シエリの横を駆け抜けた。
――――――汝が盟意をここに示さん
木々はいっそう強く揺れ、暗い森の中、そこだけ日の光が差したように杖の石が照らし出す。シエリの紅い瞳がグズベリとロマをしっかりと捉えた瞬間、
―――――――――シルヴァン!!
ふたつの魔石の光によって結ばれた光の輪から、白く発光する巨大な蛇のような体躯がするりと躍り出た。
人の身の丈の5倍はあろうかという巨体が、宙にふわふわと浮いている。背に生えている、体のわりに小さな翼はゆらゆらとのんびり揺れていて、地面から浮いている事にはあまり関係がないようだった。白くしなやかにのびた体。その頭についている宝石のような二つの紅い色の瞳が、同じ色の瞳の少女を空中から懐こく見つめている。
「行け! シロ!」
見たこともない生物を呆然と見上げていたシエリ以外の全員が、少女が呼んだシロという名とその巨大な生物を結びつけるのに数秒を要した。
呆気にとられて言葉もない人間たちの頭上でシロはくるりと旋回すると、グズベリとロマに狙いを定めて急降下する。突進してくるのか、と構えた二人の目の前で、シロはふい、と方向を変える。
未だ驚きから抜けきれない二人の周りを2、3回旋回しながら飛び上がると、その白い生き物は頭上でぴたりと動きを止めた。
「何なのこいつ……!?」
自分が知らないものなど、そうそうあるはずもないと思っていたグズベリは動揺を隠せない。
ぴぃ
と、その巨大な生物が、拍子抜けするような声をあげた途端、グズベリとロマの周りに、白く発光した大量の羽が溢れるように舞い降りた。地面に落ちては溶けるように消えて行く羽が、次から次へと降ってくる。実体のないその羽は、ロマの魔法剣もグズベリの魔法も受け付けなかった。ただひたすら無害に降ってきては地面に消えて行く。
いつしかグズベリとロマの視界は、白い光の空間に変わっていた。
「幻覚……!」
気付いたグズベリが、先ほど撃たれた傷口に自ら爪をたてた。痛みによって光の空間を抜け出した時、シエリたちの姿は既に見当たらなかった。獲物を全て逃がすなど予想もしていなかった事態であった。グズベリの肩が怒りでわなわなと震える。
少し遅れて幻覚を抜け出してきたロマは、グズベリの顔が醜く歪むのを見た。
「おのれぇェェッ!! 何としてもあと3日で奴らを探し出すのよ!!!」
裏返った金切り声に合わせたように、かっと雷によって辺りが明るくなる。グズベリの怒りを象徴するかのごとく、鼓膜を裂かんばかりの音を立てて雷鳴が轟いた。
*
泥水をはね上げて、ユトの森の道を馬車が全速力で走る。ぴしぃっ、と馬に手綱を入れたルツが、どっと疲れてほろ馬車の中に座り込んでいる面々に、叱咤するように叫んだ。
「何としても、逃げ切るのよ!!」
第2章 馬車に揺られて