第1章 見えない月の導き


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 《シルフィア号》の白い帆が、風を受けて大きくふくれている。船が勢いよく水を切って進む音も清々しい。いまや海は、まったく正常な状態に戻っていた。
 船底の穴は乗組員たちが突貫作業でふさいでいた。応急処置なので港に無事に辿り着けばすぐに、もっと大がかりな修理をしなければならないだろうが、今のところはどうにか浸水も沈没もせず、船は進んでいた。

「飛んでる鳥も襲ってこないし、泳いでる魚も飛び出してこない。普通だよなー!」
 気持ちのいい潮風に目を細めながら、ウォンは大きく一つ伸びをした。
 海水でぐっしょり濡れた服はすぐに脱いで、ラギと二人、上半身裸のまま甲板の上で服が乾くのを待っている。並んで日光浴をしながら、それぞれの愛剣を入念に手入れしていた。なにしろ海水に浸ったのだから、放っておいたらあっという間に錆びてしまうだろう。
 自分の剣を真剣に手入れしながら、ウォンはちらちらとラギの方を盗み見ていた。その深紅の剣を思わず凝視する。と、ラギがウォンににっこり笑いかけた。
「この剣が、気になる?」
「ああ。――魔法剣なんだろ?」
「そんなに大したものじゃないんだよ」
 そう言いながら、ラギはとても大切そうに剣についた海水を拭う。それから少し剣を離して柄から剣先までじっくりながめ、満足したように一つうなずく。
「この剣は、僕の師匠が与えてくれたものだから、そういう意味ではとても大切なものだけどね」
「あんたの師匠って、剣の師匠か?」
「そう。それから魔法もね」
 そこでウォンは思い出した。ラギには重大な貸しが一つあったのだ。10レータという、ウォンにとっては途方もない大金を、まだ支払っていない。
「オレ、あんたに金払ってなかったんだよな」
 ラギは何の話か分からずに、きょとんとしてウォンを見た。それから、ああ、と言って笑った。
「あの10レータかい? それなら、僕には受け取れないと――」
 その鼻先に、ウォンは持っていた剣をぴたりと突きつける。まだ海水で少し濡れた剣は、まぎれもなくクラーケンにとどめを刺した剣だった。
「あんたに倒せなかったバケモンを、オレがこの剣で倒したんだぜ。それでもまだ、オレはあんたより弱いって言う気かよ?」
 自信満々の表情だ。
ウォンがとどめを刺したのは確かだろうが、最初の一撃はキルトのものだったし、そのダメージを与えたのはジーナの魔石と魔法の力だったし、続く一撃を加えたのはこのラギのはずだ。
しかし、ウォンは強気に言ってのけた。
 そんな挑発まがいの言葉にもラギは少しも腹を立てず、そうだったね、と明るく微笑んだ。
「たしかに君の言うとおりだ。君は、弱い者じゃなかった。――それじゃあ」
 ウォンの切っ先をそっと指で押し返しながら、ラギは言った。
「10レータ、もらおうか」
 ウォンの笑顔が、固まった。

     *

 ブランガルがライモンとジーナを死亡扱いにすると言ったのは、その日の夕食のテーブルだった。
「……残念なことだが、仕方がない」
 あのあと、船は応急処置の間しばらくその場にとどまり、ジーナの捜索が続けられた。ラギとウォンがそれぞれ交代で何回かもぐり、可能な限りの範囲を探しつくした。しかしジーナやクラーケンどころか、それらの痕跡すら、何ひとつ見つからなかった。そこにあったのは、ただ、海底と海の生き物たちの姿だけだった。二人より泳ぎの得意な船員も何度ももぐったが、彼らにさえ、ジーナが生きていると思えるようなものはついに見つけられなかった。
 ブランガルは目を伏せたまま懐から2通の封筒を取り出し、遺言書だ、と告げる。
「航海法にのっとり、船長権限でこれを開封する。諸君は遺言書の証人になる……」
 ライモンの遺言は実に簡単なものだった。財産はすでにほとんどを妻に渡してあること、船の遺品は処分してほしいということ。(ライモンに配偶者がいたことに、その場の数名が驚いていた。)そして最後にライモン・ラグドックの署名と、契約した時の日時が書かれていた。
 2通めの封筒はジーナのもので、こちらも形式どおりの簡単な遺言書だった。報酬は受け取れなくてかまわないので、遺品のうち何か一つを故郷の家族のもとに送り届けて欲しい、と書かれていた。ライモン同様に、最後にはジーナ・アドマールの署名があった。
「故郷は……クラッシュウォーズ、とある。聞き覚えのない町だな……」
「ラグランシア大陸じゃないかな?」
 ラプラがシエリの方を見ながら言うと、こっくりうなずいてシエリが説明した。
「ソードノイド皇国の北のほうにある小さな町だぞ。世界地図にもちゃんと載っているではないか」
 それなのになぜ知らないのだ、とばかりに言い放つ。
「そうか、ずいぶん遠い町だな。まあいい、誰かそっちの方に用事がある奴を見つけたら、そいつに頼むことにする」
 ブランガルは、あくまでも淡々と言って、この話題はここで打ちきりになった。その後は気をきかせたラプラが、船がユーゼリア大陸に着いたら皆どうするのかという話題を持ちだして、食事のテーブルは再び明るく盛り上がった。
「船はシャルウィンの首都、ローアン港に着くはずだけど、みんなはそれからどこへ行くんだい?」
 最初に答えたのはシエリだった。
「わたしはラグランシア大陸を無事に出ることができて、ユーゼリア大陸に着くのなら、その先はどこでもかまわない」
 そういえば船に乗る前にも同じようなことを言っていたのを、ラプラは思い出した。しかし、そのことを問いただす前にラギが口を開く。
「僕は、予定よりだいぶん遅れてしまったけれど、家に帰るつもりです」
 そうか、とブランガルは顔を上げる。
「そういえばシュフィール卿の館は、シャルウィン王国にあるんだったな」
「ラギです、船長。――ええ、シャルウィンの西の街、セイズに家があります。セイズは水と空気の綺麗な街ですよ。もし良ければ……」
 ラギはテーブルをぐるりと見渡しながら、にこやかに告げた。
「ぜひ皆さんで来てください。歓迎します」
「嬉しいけど、私は行きたいところもあるし……」
 ルツが断わりかけるのをさえぎって、ラギは続けた。
「我が家の料理長はシャルウィンでも一、二を争う料理の腕前です。きっと皆さんに満足してもらえると思いますよ」
 その一言の威力は絶大だった。
「――ぜひ、行かせていただくわ」
 ルツばかりかラプラまで眼の色が変わったのを、キルトは見逃さなかった。
「私が行くとなると、この子たちも一緒ということになってしまうけど、いいかしら?」
「たち、って、アンタまだオレを連れまわす気かよ!?」
 ウォンの非難の叫びも、キルトの無言の抗議も、ルツによって鮮やかに黙殺される。
 ラグランシアでさえなければどこに行くのもかまわない、と言ったシエリも、言葉巧みに誘うラプラによって簡単に同意した。
 しかしブランガルだけは、首を横に振った。
「俺はこれから元通りになる航路の調整と、これまでに食らった損害を穴埋めするために船を走らせなきゃならないんでな。残念だが、またの機会に」
 ようやく復興する航路には、荷を運ぶ船と客を乗せた船とがひしめき合うことになるだろう。船があるものはこぞってこの海域に押し寄せ、稼ぎどころを逃すまいとするはずだ。ブランガルもその例外ではない。
「そういえば、ディアニアかシャルウィンのどちらかの政府から、報奨金でも出ないのか?」
 キルトの発言で、ルツもその事実を思い出す。
「そうだった。私もそれなりの礼金をもらう約束だったわね、船長さん?」
「報奨金を出していたのは、ディアニア政府と、ディオン・ローアンそれぞれの船舶組合だな。ローアンの港に着けばローアン船舶組合からまとまった金を受け取れるはずだが、それ以外は一度ディオンにまで戻ってからだ。お前たちにはそのローアンからの報奨金の中から、約束の報酬を支払おう」
 そう言ってから、ブランガルはふと支払う相手を数えなおしてみた。
「なんだ。払う相手は奥の船室で寝ているサンクとカイツ、それにあんただけじゃないか」
 ルツはうなずいた。
「具体的にいくらくらい払ってもらえるのかしら?」
「サンクとカイツには契約どおり2バークずつ……あんたにも同じだけ、渡そう」
 2バークといえば、かなりの大金だ。しかしルツは顔色ひとつ変えずに、鷹揚に言った。
「ありがたくいただくわ」
 サンクとカイツ。その名前を聞いてラプラが少し表情を曇らせる。
「二人は、大丈夫なのかな」
 それはその場の誰もが気にしていた事だったので、視線がルツに集まった。
「このまま順調に船が進めば、ひとまず大丈夫だと思うわよ」
「本当か」
 ブランガルは大きく安堵の息をついた。これ以上の死者は出したくない。
「では、残りの2通の遺言書は二人に返しておくとしよう」
 久しぶりの笑顔を浮かべながら、ブランガルは席を立った。





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