第1章 見えない月の導き


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「……痛……」
 左の脇腹をおさえる。服の上からでも、手袋越しでも、自分の身体の異変には気がついた。
「ちょっと、はりきりすぎたかな……」
 しかめる顔に、小さな苦笑が浮かぶ。ウォンが海に飛び込む音が高らかに響いた時、ラプラは船の反対側にひっそり移動して座りこんでいた。
「シエリには足手まといにならないように、って言ったけど。これじゃあどっちが足手まといなんだか分からないなぁ。……ひびが入ってるかな、これは」
 立ち上がりたかったが、こうもグラグラと揺れている状態ではとても立っていられない。へたに立ち上がって転倒してケガを増やすよりは、と大人しく座っていた。
「治るのに時間がかかるんだよな」
 情けない、といった口調だった。
 そこに上から声が掛けられる。
「となり、いいかしら?」
「――どうぞ?」
 ラプラに並ぶようにして、ルツが腰を下ろした。ふぅ、と息をつく。
 ごぽ、ごぽぽぽっ……。
 静かに船は傾いていた。今すぐ沈むほどではないようだが、放ってはおけない。しかし今は直す余裕がない。とにかくクラーケンをどうにかするほうが先だ。どうにかできればの話だが。
 ……ごぽっ。
 しばらく無言で座っていたが、ルツの方からは何を言うでもなかったので、ラプラが口を開いた。
「ジーナは助かるだろうか」
「さあ……どうかしらね」
 ルツの返答はそっけない。興味が無さそうな、心配していないような口調だった。そんなルツを横目で見て、ラプラは質問を変えてみる。
「ジーナは少し変わってたと思わないかい」
「あら」
 ルツが振り向いて、二人の目が合う。
「あなたも見るところは見ていたのね」
「彼女には奇妙なことがいくつもあったからね」
 たとえば、キルトに銃口を向けられても無傷だったこと。ラプラがその例をあげると、ルツもうなずいた。
「あれはずいぶん不自然だったわ。まあ、キルトの狙いが外れていたと考えれば片付くけれど。でもこの航海の間中、傭兵として乗り込んだにしては非協力的な態度が多かったのも確かよ」
 マーメイドとマーメイルに襲われた時、『人魚の唄』にただ一人やられなかったにもかかわらず、ジーナは男たちを助けようとしなかった。実際に行動したのはルツで、ジーナは言い訳をしただけだ。
「その前に、下の食堂で襲撃に気がついた時も、どこかためらっていた」
「そういえばそうね。風を起こしたのも、凪になってからかなり後だし」
 一つ一つは気にとめるほどでもないことが、重なると急に疑わしさを増す。
「さっきまで、もしかしたら彼女も海の魔物の一種だったんじゃないかと思っていたところよ。それがクラーケンにやられてしまったんで、予想は大外れだったんだけど」
「どちらにしても彼女が助かって無事に船に戻れれば、はっきりさせることができそうだから、何とか助かって欲しいと思ってるよ」
 それがラプラの本心だった。ラプラの考えもルツとほとんど同じだ。そしてそれが事実かどうかを確かめるためにも、ジーナには無事でいてほしいと思っている。助けに飛び込んだラギは、あいにく何の収穫も得られなかったが、今、二人目の救出者が海に飛び込んだところだ。まだ完全に望みが断たれたわけではない。
 その二人目のことを考えて、ラプラはもう一つ気になったことをルツに尋ねてみた。
「ウォン一人で海に放り出したようだけど、大丈夫かな」
「大丈夫でしょう。あれくらいで死ぬようなヤワな育ち方はしてないはずよ」
 ルツは気楽に言った。
「昨日の食事の時に聞いたんだけど、彼はスラム育ちらしいね」
「私もそう聞いたわ」
「うん……それにしてはずいぶん、暗いところがないなあ、と思ったんだよ」
「そうね」
「ふつうは、スラム育ちって言ったら、表面上は明るくふるまっててもどこかに暗い影があるもんなんだけど。ウォンには不思議と、影が見えない」
「そこがおもしろいじゃない?」
 ルツは、にっこりと笑った。だからこうして見ているのだ、という顔だった。
「あの子のことなら、心配ないわよ」
 一本の飾り針を取り出すと、それで自分の肩のあたりを示しながらルツは続けた。
「さっき針を刺しておいたの。痛覚を鈍らせるツボ。多少のケガなら平気だと思うわよ」
 それはウォンの肩に手を置いた一瞬の、早わざだった。

     *

 海の中は、真っ暗だった。
 たいして深くはない。耳鳴りもしないし、重苦しい水の圧力もそれほど感じない。けれど、太陽の光だけ深海のように少しも届かなかった。
(やべえ、見えねえ……こんな中でラギはどうやって戦ってたんだよ)
 とりあえず剣を振ってみた。いつもの半分以下の速さでどうにか動いた剣は、何の手応えもなく足元まで振り下ろされた。足もふんばれないので、剣の勢いにつられて体勢が大きくくずれる。
(っとっと……。くっそ、どうすりゃ当たるんだ?)
 ただ当てるだけでは意味がないはずだ、というのはウォンにも分かっていた。ラギが魔法剣を用いても倒せなかった魔物だ。ふつうの剣で斬りつけて倒せるはずがない。
 ウォンはウォンなりに考えてみた。
(さっき、あのヘナチョコが何か一発ぶちこんだよな……あの傷あとにもう一撃おみまいしてやったら、効くんじゃねえか?)
 おそらくラギも、同じことを試みたはずだ。しかし問題は、どうやってその傷を見つけるか。傷どころか、目の前すら見えないのに。
(――?)
 すぐ耳元で、海水がうねるのを感じた。と思った次の瞬間には、強い力が頭を打ちすえる。
(――むぐッ)
 衝撃で肺から空気をもらしそうになるのを、なんとかこらえた。食いしばる歯の間から血の味がする。少し口の中を切ったようだが、それにしては不思議と痛みは感じなかった。ウォンはルツに針を打たれたことを知らない。
 こちらからはまったく見えなかったが、頭を襲った一撃はクラーケンの足の攻撃だった。正確にウォンを狙ったものか、それとも振り回す足の一本に偶然当たったのかは分からない。どちらにしても見えない以上、かわすこともできないということだけは理解できた。
(やべえぞ、おい)
 ウォンの本能が警鐘を鳴らす。
 そんなに長く息を止めていられないし、敵の攻撃を防ぐ手段もとっさに思いつかない。となれば取る戦法はひとつ。
(かわせねえなら、突っ込むだけだ!)
 海中でうまく振れない剣も、泳ぐ勢いにまかせて突き刺せばうまく当たるということを、ウォンは先のマーメイルとの戦いで学んでいた。
 問題は、どこに向かって突っ込んで行けば良いのかということだった。
(せめて見えれば……なんでもいいから、なんか目印になるもんが見えたら絶対負けねえのに)
 目印どころか、目の前にあるはずの自分の剣すら見えない。だんだん息が苦しくなってくる。いつまたクラーケンの攻撃が襲ってくるとも分からない。ウォンはあせった。
(あ〜〜〜くそくそくそ! 見えろ! 見えろ見えろ見えろ! 何でもいいから!!)
 全身全霊をかけてその一点に集中した。息苦しさも忘れて、とにかくクラーケンを指し示す何かを見つけるために、ウォンは意識を総動員した。ただひたすら、何か見えないか、何か見えるはずだと信じて集中を高める。
(見えろ見えろ見えろ見えろ………………お!?)
 一瞬、海水が目にしみたのかと思った。チリッ、という目を刺すような痛みが走った。目の奥で小さな火花が散ったような気がしたが、それは痛みのせいで見えた錯覚ではなかった。本当に遠くが光っているのが見えたのだ。
 闇の帳を針で突いたようなかすかな光点。それはにぶく光を放っていた。少し泳げば手が届きそうな位置だ。なぜかウォンには、それがクラーケンの居所だという確信が湧いた。
 もともとウォンに理屈というものはない。いつもカンだった。それだけでここまで生き抜いてきた。それがウォンの自信のすべてなのだ。
(また光った……!)
 その光が何なのかということも考えなかった。夢中で水をかいて、近付こうとする。途中でまたクラーケンの攻撃の気配を感じたが、かまわず突進した。
 確かに光っているのに、その光に照らし出されるものが何もないということにも、ウォンは疑問を感じなかった。とにかく倒す。この剣で倒す。あの光に突っ込む。
 頭にあるのは、それだけだった。

(一撃必殺――……!)

 渾身の力をふりしぼって、光に剣を突き立てた。
 確かな手応えがあった。
 ビリビリと海水を震わす振動が、続いてすさまじい奔流がウォンを襲った。思わず剣から手が離れそうになったが、決して離すまいと柄をにぎる手に力を込める。
(もっと……深くだ……ッ!!)
 さらに剣を深く突き刺そうと腕を伸ばす。
 その時、ウォンの中に不思議な感覚が生まれた。
 熱いかたまりを飲み込んだような、胸に小さな太陽でもあるかのような、奇妙な感覚だった。
(なんだ?)
 ――どくん――
 不思議と、自分の鼓動が大きく聞こえる。
 小さな火のかたまりのような熱いものが、胸から腕へ、腕から剣へ流れていくのを、ウォンはぼんやりと感じていた。
(……この感じは、覚えがある……)
 すべては、ほんの一瞬のことだった。
 剣の切っ先からさらにその先へ熱いかたまりが流れていったと思った時、さきほどよりもずっと大きな振動が剣を伝わってきた。
手がしびれるほどのそれは、伝説の魔物クラーケンの、まるで断末魔の悲鳴であるかのようだった。

(……やべ、く、くるしいッ)
 しばらくそのまま剣を刺していたが、とうとつに息苦しさに気がついた。一度気がつくとどんどん苦しくなってくる。今すぐ口を大きくあけて空気を吸いたかった。剣を抜こうとしたが、なかなか抜けない。だが大切な剣を置いて戻るわけには絶対にいかない。ウォンは力任せに引き抜いた。
 もはや一刻の猶予もなかった。海面を目指して一気に泳ぎ始める。
 ――と、その足をつかむものがあった。
 ウォンはぎょっとして、ふりほどこうとめちゃくちゃに暴れた。しかし、がっしりつかまれた足は思うように動かず、さらに身体まで抱えられてしまった。
(は、はなせ! くそ! はなせ!)
 息苦しさと、海の底に引きずり込まれる恐怖感がウォンを襲った。だんだん苦しさが強くなって、抵抗する力も弱くなってくる。すると何者かは、ウォンの進もうとしていた方向とはまったく逆向きに、一気に引っぱり始めた。
 ウォンは本気であせった。ほとんどパニックだった。剣だけは、決して手放さなかった。
 もうだめだ、と大きく口を開けたその瞬間、突然視界がひらけた。
 水が流れ込んでくるのを覚悟していた口には、清々しい空気が大量に吸いこまれた。
「――――ハッ、ハァッ、ハァッ、ハアッ!」
 夢中で息をした。
「だいじょうぶ?」
 すぐそばでする声は、ラギのものだった。
ウォンをつかんでいたのはラギだったらしい。すると、自分は知らないうちに海底に向かって泳ごうとしていたのか?
「海の中で視界が悪いと上下感覚が狂いやすいからね。心配して様子を見に行って、よかった」
 ようやく落ち着いて横を見たウォンに、ラギが満面の笑みで応えた。
 上からも歓声がふってきた。
「よくやった!」
「……え……?」
 見上げるとブランガルが大きく手を振っている。手にはロープをにぎっていて、もう片方の端はラギが持っていた。
「クラーケンの断末魔は、船の上にも響いたよ」
 ラギが、まだ状況がよく分かっていないウォンに説明する。ほら、と言って海面を指差されて、ウォンにもどういうことかだんだん分かってきた。
 今の今まで真っ黒だった海がだんだんと、もとの、綺麗な青い海に戻っていくところだった。
「……ははっ……」
 お互いに頭からずぶ濡れの格好のまま、海面に顔を出してラギと向き合う。だんだんと、熱い達成感がウォンの身体いっぱいにひろがっていった。
 自分が、クラーケンを倒したのだ。
「――――ッしゃあー!」
 こぶしをぐっと突き上げた。高く上がった太陽が眩しかった。 あとからあとから、不思議な高揚感がこみ上げてくる。

 満面の笑顔が浮かぶその頬を、久しぶりの潮風がなぜていった。





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