第1章 見えない月の導き
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三日後、シャルウィンの首都ローアンの港では、朝から大変な騒ぎが起こった。
途絶えていたラグランシア大陸からの船が、久しぶりに入港したのだ。いかにも満身創痍の《シルフィア号》だったが、ローアンの港街に暮らす人々の目には、帆を揚げて悠々と港に入ってくるその船の様子は何よりも頼もしいものに見えた。
港は歓声をあげる人々で埋めつくされ、《シルフィア号》の面々は想像もしなかった出迎えに思わずたじろいだが、ラギが船上から笑顔で手を振ると爆発のように歓声が弾けてそれに応えた。
無事だった何人かの乗組員がさっそくイカリを降ろし、帆をたたんでいる間に、ブランガルは港に集まった人々に向かって重傷のケガ人がいることを叫び、駆け付けた数人によってサンクとカイツはすぐに治療院に運び込まれた。
やがて集まっていた人々も少しずつ減り、《シルフィア号》からも一人また一人と下船し始めた。ラギはブランガルと固い握手を交わし、他の皆には待ち合わせの場所を伝える。
「港から続く大きな通りを少し行くと、右手に《食彩亭》という小料理宿がありますから」
自分は街で他に雑用があるので、と言って先に船を降りた。
ラプラも街に興味がある様子だったが、シエリはまっすぐ《食彩亭》に向かうと言い張って、ラプラを引きずるように船を降りていった。降りる前にラプラが一言、船長に挨拶する。
「それじゃ、船長さん。お世話になりました」
「いや、最初は驚いたがな。ずいぶんあんたにも助けてもらった」
キルトは、コックに何度もどつかれながらも、どうにか別れを伝えると、一本のナイフを押しつけられた。
「餞別だ」
むすっと一言告げると、振り返りもせずにコックは厨房に降りていってしまった。
ウォンもジョイと騒々しく別れてキルトと先を争うように桟橋を渡ろうとし、ふと、ルツがまだ甲板に残っているのに気がついた。
「おい、ルツ? 降りねえのかよ」
ルツは甲板で考え込んでいた。ウォンに急かされて、ようやく一歩踏み出す。
「……アドマール」
口の中で何度もその名前をころがしてみた。ジーナの遺書に署名されていた、本名だ。
「おい、降りねえのか?」
桟橋を渡りきったウォンが、振り返って叫ぶ。ルツは考えながらゆっくり桟橋を歩いた。
何かがずっと引っかかっているのだ。ジーナ・アドマール。5番目のアドマール。
「a、d、m、a、l、……」
一つずつはっきり区切って発音してみる。古い記憶がよみがえった。
幼い頃に、必死になって文字を分解したり組合わせたり、大がかりな暗号を解いたことを。
はっとした。そうだ、これはアナグラムだ。とても単純な。
「ひっくり返せばl、a、m、d、a。bはどのみち発音しないから、lambda――ラムダ」
目の前で火花が散ったような気がした。
「……なんてこと……!」
ジーナの行動には、いくつも怪しい点があった。
そして事件の背後につきまとっていた黒月の影。
ルツの中で、全てがひとつにつながった。
では、あの女はまんまと逃げおおせたのだ。行方不明だなんてとんでもない。
はじめからすべてあの女が仕組んだ事件だったのだ。きっと他の船にも同じように乗船して、うまく船を沈める手助けをしていたに違いない。
今回は形勢が悪いとなった瞬間、戦闘の混乱に乗じて船から脱出したのだ。あの方法ならば、確かに誰にも疑われずに姿を消すことができる。実際、《シルフィア号》の全員がジーナは死んだと思ったのだから。
ルツの胸中に悔しさが込み上げたが、もう遅すぎた。どうしようもない。
「何だよ?」
桟橋をようやく渡り、岸に立ち止まるルツを、ウォンは不審そうな目でじろじろ見る。
そんなウォンをちらりと見返して、ルツはこれ見よがしに溜め息をついた。
「何だよ!?」
「なんでもないわ。ほら、さっさと行くわよ、荷物持ちなんでしょう?」
5番目というからには、1番目も2番目も他にもまだたくさんいるのだろうか。
歩き出しながら、ルツは考えをめぐらせた。
だがこの航路に奴らの仲間が現れて、再び同じような事態になるとは考えにくかった。ひとまずこの海域は決着がついたと見ていいのだろう。
マーメイドの存在も知られてしまったし、クラーケンも倒された。そしてジーナは死を装って姿を消した。連中はここから手を引いたということだ。ならば舞台を移すはずだ。
だが――どこへ?
「問題は、その行き先ね……」
「なんだ? 薬草店に行くって言ってたんじゃねーか。それとも気が変わったのかよ。別にいいけどオレは。つまんねーもんな、なんか辛気くさくてよ」
「最初からこんなに大きな街とその航路を狙ってた。ということは、次の狙いも同等かそれ以上の規模だと考えられるってことだわ」
「げっ。おいおい、あんたはちょっと買物しすぎだって。特に薬草、買いすぎ。ぜってー買いすぎ! この街もけっこうでかいし、これ以上でっかい店狙ってどうすんだよ」
「近くなら、ユーゼリアのどこか別の国の中……あるいは……コカ大陸、もありえるわ」
「冗談だろ!? そんな遠くまで付き合えねえっつーの」
ぴたっと立ち止まって、ルツはウォンをにらみつけた。
「――ごちゃごちゃうるさいわね。あんたに決定権なんかあると、まだ思ってるの?」
「あ、またその偉そうな言い方。いい加減にしろよ、確かにまだ借りは返してねえっつーか、このホルダーを取り返せてねえけど、それでオレの事を何でも思い通りにできるって考えてるんなら、そりゃ勘違いだぜ」
「そうかしら?」
ルツは、上機嫌の微笑みをこぼした。
「それならそのホルダー、渡してちょうだい。今まで運んでくれて助かったけど、私たちはここでお別れね。あんたはどこにでも好きなところに行きなさい、ホルダーなしで。私は、そうねぇ、これは重過ぎて運ぶのも面倒だけど、このまま売っても大したお金になりそうにないし、革細工屋を探して、何か使える装備に作り直してもらうとするわ」
「ちょ、ちょちょちょっと待て!」
焦ったのはウォンだ。背後をかばうようにして後ろに下がる。
「そんなことぜってー許さねえからな!」
ルツの笑顔は、勝者のそれだった。
ゆっくりとうなずいて、再び歩きだす。
「だったら、くだらないこと言ってないでさっさと歩きなさい。まずはあそこのお店からよ」
いずれにしても、とルツは思った。とにかく連中は、この海域からは手を引いた。それならもう自分たちが関り合いになることを心配する必要もないだろう。
黒月の名を名乗るような人間と、わざわざ付き合いたがるような物好きはいない。
今は考えまい。あとの心配は、あとですれば良いのだから。
「《食彩亭》に行くんじゃねえのかよ?」
「その前によらなきゃならない薬草店がたくさんあるのよ」
ウォンのうめきのような悲鳴も、ルツの耳には入らない。
あっという間にウォンもキルトも追い抜いて、軽快な足取りでルツは街に向かって歩き始めた。
季節は虚月。月のない空に、人の心の影が黒月を浮かべる。
それは偶然なのか、それとも必然だったのか。
人は出逢い、人は別れる。
6人の旅の道標は、6人の思惑とはまったく関係なく、こうして絡み合ってゆく。
まるで、見えない月に導かれるかのように……。
《了》
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第1章 見えない月の導き