第1章 見えない月の導き


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「ウソだろう……?」
 あまりに突然の出来事だった。
 呆然としたのはキルトだけではない。ブランガルもウォンも、目を見開いてジーナの沈んだ海面を見つめるばかりだ。
「……!」
 ただ一人、即座に反応したのはラギ。着ていた上着を脱ぎ捨てると、褐色の肌をさらして抜き身の剣を片手に、あっという間に船縁を飛び越えた。バシャン、という音でウォンが我に返る。
「――おい、今、飛び込んだぞ!?」
 ルツも、ふーっと大きく息を吐きながら、同意した。
「下ではまだクラーケンが暴れているっていうのにね……」
 船から人が海に落ちれば、ふつうなら何らかの救助をしようとするだろう。浮き輪を投げ込んだり、泳ぎの得意な者が助けに飛び込んだり。だがこんなに荒れた海に、しかも攻撃を受けて怒り狂うクラーケンがすぐそこにいるような中に自ら飛び込むなど、自殺行為に等しい。
 他の誰もラギの後に続こうとする者はいなかった。責められることではない、それが普通だ。クラーケンの足に巻きつかれて海に引きずり込まれたジーナを、どうやって助け出すのか。
「どうするつもりなんだ?」
 ウォンは身を乗り出して海中をのぞき込んだ。
 かすかに、ラギがクラーケンに向かって剣を奮っているのが見える。ずいぶん泳ぎは上手いのだろう。水中なのによく剣が動いている。一度、剣がクラーケンに当たったような気がした。しかし海面が波立っていてよく見えない。
「お、お? うわっ! くそーよく見えねえ。あ? なんだこの黒いの」
 見ているうちに、海水が黒くにごってきた。
 ルツも横からのぞき込む。
「スミでも吐いたんじゃない?」
「おー、そうか。タコだもんな」
「いや、イカだろう?」ラプラが口をはさんだ。「足が白っぽかったから」
「白くは無かったわよ。緑っぽいような紫っぽいような、変な色に光ってたもの」
 ルツが言い返した。
「でもまあ私もイカのほうが嬉しいかしらね。イカに比べると、タコはちょっと口の中に残るし……」
「……黒いって言ったら、連中の体液なんじゃないのか……?」
 問題はそこじゃないだろう、とキルトは内心で頭を抱えながらもつっこむ。なぜルツが会話に加わると論点がおかしな方にずれていくんだろう? 今は食う食わないの話をする場面じゃない。まじめな話をしていたはずなのに。
 悩めるキルトにはかまわず、ルツとラプラはイカタコ談義に盛り上がる。ウォンは最初からキルトにはかけらも注意を払わずに、じっと海をのぞき込んでいた。すると、黒い海面の奥で何か赤い光がひらめいた。
「ん?」
 気のせいかと思ったが、何度もぼんやり光り続けている。
「なんだ?」
「魔法の光のように見えるけど」
 イカタコ談義を中断して、ラプラも海中を見つめる。
「って、誰のだ?」
「そりゃあ、下にはクラーケンとラギしかいないから……」
 言って、ラプラはブランガルを振り返った。ブランガルは小さくうなずいてその光を見つめる。
「シュフィール卿……ラギの得意技は魔法剣だ。あの光はおそらく、魔法剣の発する輝きだろう」
「魔法剣!?」
 ウォンには聞いたことの無い言葉だった。
「魔法のかかった剣だ。それだけで十分切れ味が良くなるが、彼の魔法剣はさらに、切っ先から攻撃魔法を発することもできたはずだ」
「すっげええええ!」
 ウォンの目が輝いた。自分も使ってみたいと思っているのに違いない。
「それにしても、ずいぶん長くもぐっていられるのね」
 とルツが感心した時、ちょうどラギの頭が海面に浮き出た。ぷはッ、と大きく息をつく。船を見上げて片手を振った。
「ロープだ。これを投げろ」
 ブランガルがウォンに長いロープを手渡し、二人がかりでラギを引っぱりあげた。
 甲板に上がったラギは肩で息をしていたが、切れ切れに言葉をつぐ。
「彼女は、見つかりませんでした。せめてクラーケンを倒せれば、助かるかも、しれないと思うんですが、本体を少し、吹き飛ばしたくらいでは、倒せなかった……急所が、どこか別のところに、あるんです」
 ぽたぽたと髪の先からしたたる水滴が、甲板に小さな黒い水たまりを作った。
「この黒いのは、やっぱりあいつの体液か?」
「ええ、斬ったとたんに辺り一面が真っ黒になりました。けれど……」
 ラギの指差した水たまりは、すうっと溶け込むように透明になっていった。
「今さら驚くことでもないな。このへんの連中は全部こうだ。何かの影響を受けているんだろうが、この状況じゃ確かめようがない」
 ラプラは肩をすくめた。その金髪についたはずの黒い体液も、すで消えている。
「そういえば……しばらく、足の攻撃がないな。本体のダメージが効いているってことかな。それとも――うわッ」
 その時、ひときわ大きな揺れが《シルフィア号》を襲った。波間から3本の足が突き出して船を打ち砕こうとしていた。

 ――バキッ。

「何だ、今の音?」
「下の方から聞こえたわよ」
「うっわ、やべえぞ!」
 下を指差して顔色を変えるウォン。その方向を見て、ブランガルは目を疑った。
「……こいつ……!!」
 足の一本が、船の腹に突き刺さっていた。こうるさい船上の小物にはかまわず、一気に獲物を沈めようという魂胆か。
 ごぼぼぼぼっ……という音が、船底に穴があいたことを全員に悟らせる。
「ふざッけんな貴様ァァ! 俺の《シルフィア号》に穴をあけるとはいい度胸だ! 今すぐ刻んでうちのコックにくれてやるから首を洗って待っていろ!!」
「せ、船長さん……?」
 急変したブランガルを見てひきつるラプラ。
「何か、急に性格が変わっちゃったんだけど……」
「……船を攻撃されると激情する人だったのね」
 ルツもちょっと驚いた。もう少し冷静な人物だろうと評価していたからだ。
「人は見かけじゃ分からないものだわ」
 しみじみ言った。
 ブランガルは怒りの表情そのままにズカズカとウォンに近寄って、力強い手で肩をつかんだ。
「お前も行け。行って、あのタコ野郎を刻んでこい!」
 ブランガルの目は完全に座っていた。キレている。
「またオレかよ!? ヒキョーじゃねえか? オレばっかり働かせるなよ!」
「ラギはもう行った。お前の次はそっちのガキだ。つべこべ言わずにとっとと行け!」
 じろっとにらまれたキルトがあわてて目をそらす。ルツも「仕方ないわね」と言いながらウォンに歩み寄った。
「あんた達はそのためにこの船に乗ったんだし――キルトの銃よりはあんたの剣の方が接近戦向きよ。それにあの子はもう、ひと働きしたわ。あんたは何かやったの?」
 ぽん。
 左肩にブランガル、右肩にルツの手を受けて、ウォンはぐいっと前に押し出される。
 前――すなわち海へ。





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第1章 見えない月の導き