第1章 見えない月の導き


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 ブランガルもまた、船がひねり潰されようとする光景をなかば呆然と見ていた。
 ぎし、みしっ、と異音が続く中で時折バキっという材木の折れる音も響く。
 このままでは船が沈む。そんなことは考えるまでもなく分かっていた。しかしどうすれば良いというのか。剣が通らず、魔法で完全に吹き飛ばしても復活するような魔物を相手に、ただの人間の身で何ができるだろう。
 ほんの一瞬前に湧いていた高揚感は完全に消し飛んでいた。伝説の魔物の姿と、自分の大切な船が沈みかかっている現実を目の当たりにした今、ブランガルの中に沸き起こるのは――
「……ジーク……」
 お前が言いたかったのはこいつのことだったのか。お前もこの魔物に出逢ったのか。月の無い空の下でなお月を見たのか。見てはならない月を。
 お前の船をあんなに壊したのもこいつか。お前の船の仲間を無残に引き千切ったのもこいつか。
「…………ジーク……!」
 ふつふつと、純粋な怒りがブランガルの内側を満たしていく。それは親友の仇に対する憎しみでもある。倒したい。多くの仲間たちを沈め、親友を殺した憎むべき魔物を何が何でも倒したい。そう思った瞬間、ブランガルの脳裏にひとつの可能性がひらめいた。
「――本体だ!」
 痛む背中に力を込め、ブランガルは腰のサーベルを抜き放ちながら声を張り上げた。
 皆がブランガルを振り向く。
「足はいくら斬っても無駄だ。いくらでも再生する。本体を狙え!」
「なかなかいい考えですね」
 ラギも立ち上がりながら言った。
「問題は、海中の本体にどうやれば致命傷を与えられるかということだけど……」
「足がこれだけ巻きついているんだから、本体も船のすぐ下あたりにいるだろう」
「けれど剣は届きませんよ」
「ナイフを投げたらどうだ?」
 ブランガルはラプラを探したが、クラーケンの足が絡みつく舳先の方で這いつくばるようにしているラプラを見つけ、ナイフを投じる戦法はあきらめた。
「どちらにしても、ただ投げただけのナイフでは海に入ったとたん勢いがなくなってしまいます」
「じゃあ、魔法か」
「無茶言わないで」
 ジーナが間髪入れずに答える。
「クラーケンでなくても同じだけど、海の魔物に一番効果的なのは炎か雷の魔法よ。でも海中の相手なら炎の魔法も威力が落ちるし、相手が近過ぎるから雷の魔法だと船を巻き込んじゃうわ」
「さっきの石は?」
 そう指摘したのは、これまでずっと戦況を見守るだけのルツだった。
「どの石?」
「あなたがさっき、クラーケンの足に投げつけた魔法の石」
 ルツはジーナの手首を指す。左手の宝石はすべて使い果たしてしまっていたが、右手首にはまだ緋色の宝石が一つ残っていた。
「ああ、これね。確かにこの魔石を使えば爆発を起こすこともできるし、海中だろうと関係ないわよ。でもナイフと一緒。どうやってこの石を海の中の魔物にぶつけるって言うの?」
「そうだな……おそらく、こいつは船の真下に張りつくようにしているはずだ。この揺れだ、海に落したところで当たらないだろうな」
 残念そうにブランガルが歯噛みする。
 もう打つ手は無いと思われた、その時だった。

「……俺なら」

 キルトが口をはさんだ。全員に一斉に注目されて「あ、いや」と少し口ごもるが、
「俺なら、できる。できると思う」
 そう言って、皆に銃を見せた。弾倉から銃弾をひとつ取り出す。
「この弾頭にその石を使えば、ただ投げるよりも確実に当てることができる」
 言いながら、キルトの中にはかすかな不安があった。
 水中に向けて撃ったことなど一度もない。こんなに揺れる足場で狙ったこともない。弾頭を換えても同じように狙えるかどうか、もちろんわからない。
 だが、狙いどおりに撃つことができれば、きっと外さないという自信はあった。
 だから言った。
「その石、貸してもらえるだろうか」
 突然のキルトの申し出に皆は一様に驚いたが、真っ先に我に返ったのはルツだ。
「……悪くないわね。海水で勢いが殺されることを考慮して、火薬も多めに詰めておけば十分成功する可能性がある」
「いや、悪くないどころか、いい考えだ。ぜひやってみてくれ」
 ルツとブランガルはすぐにも実行に移そうとしたが、ジーナが疑いの目を向ける。
「本気で言ってるの? 魔石を銃で撃ち込むなんて、聞いたこともないわ!」
 できるはずがないと決めつけて、石を渡そうとしない。
「このまま何もしなければ、みんなそろってクラーケンのエサよ。それくらいならやれることは全部やっておくべきじゃないの?」
「やってみる価値は十分あると思わないのか? 最後の一個だとしても、頼む、使わせてくれ」
 口々に言うが、ジーナは両手を後ろに回して一歩下がる。
「だめよ。最後の手段にとっておくべきよ」
「――まあ、そう言わずに」
 絶妙のタイミングだった。
 いつの間に回り込んでいたのか、ラギがジーナの背後に立ったと思った時には、すでにその手の中にジーナの緋色の魔石がにぎられていた。
「え!?」
「さ、やってみて。この船のみんなの命運がかかってるよ」
 あわてるジーナを無視して魔石をキルトに渡す。ラギはあくまでもにこやかだった。
 キルトは受け取った魔石の大きさを調べて弾頭に使えそうなことを確かめると、すぐに詰め替え作業に取り掛かった。揺れる船の上で、しかも容赦ない攻撃をかわしながら簡単にできるような作業ではなかったが、痛む両足を踏ん張って揺れに耐え、敵の攻撃はブランガルとラギが必死に防いでくれた。
 特にラギの戦いぶりは鮮やかだった。恐ろしい速さでせまってくるクラーケンの足を、真正面から迎え撃つ。紙一重のところでかわすと、肩越しに剣を突き刺し、身体をひねって足を一本斬り落とした。流れるような動作だった。
「さすがだな」
 ブランガルも奮闘してはいたが、ラギのように一撃で足を斬り落とすようなことはできず、深手を負わせて追い払うのが精一杯だった。しかし切断しても、深手を負わせても、この敵にはあまり大差がない。いくら斬ってもあっという間に再生してしまうのだから。
「まだかッ?」
 いつまでも防ぎ切れるほど甘い攻撃ではない。ブランガルはじりじりした気持ちでキルトを急かした。キルトも分かっているから、できるだけ急ごうとするが、焦ると手元が狂う。慎重に、しかし迅速に、キルトは作業を続けた。
大丈夫、精度は必要ないんだ。こんなに巨大な的に、この至近距離で当てるのが目的なんだから、多少弾道が狂っていても問題ない。
「……できた!」
 魔石と多めの火薬を仕込んだ特製の弾丸は、一発だけ。
 キルトは船から振り落とされないように注意しつつ、右側面に移動した。ブランガルとラギが援護につく。ジーナは腹を立てているようだったが、弾が発射された時にそばにいて魔石の魔法を発動させなければならない。仕方なく、二人の後に続いた。
 キルトは船縁でしっかり身体を固定しながら、両手で構えた銃を海面に向ける。
「くそっ、よく見えない」
 大きくうねる波のせいで海中はあまり見えなかった。身を乗り出しすぎると、海面から突き出てくる足の餌食になる。できるだけ頭を低くしながら、キルトは必死に海中の影を探った。
(影が見えたら、撃つ)
 それ以外は何も考えない。とにかく無心で海を見つめた。自分の影、海面に突き出る足の影、波の影、いろいろなものに思わず反応しそうになるのをこらえる。あせると撃ちそうになるが、一発きりの弾を無駄にはできない。かといって、本体の影が海中に見えたならば、その一瞬を無駄にすることもできない。次の機会がくる前に自分は足の攻撃にやられてしまうだろう。
 極度の緊張が、極限の集中を生み出した。キルトにはもはや海中しか見えていない。
 そして、狙うべき影がついに船の下から姿を現わした時――

 キルトは、無心で人差し指に力を込めた。

     *

 キルトが必死に海中を見つめているころ、ラプラもまた自分の戦いを続けていた。
 舳先に取りついて今にも船をひねり潰そうとしている巨大な足をどうにかすべく、一計を案じる。手持ちの道具を確認すると、必要と思われるものは全て揃っていた。
 柄尻に小環のついたナイフが4本、やわらかいヒモ1本、それから透明な液体の入った小瓶を2つ、順に道具袋から取り出す。小瓶は両手にひとつずつ持って見比べ、少し考える。
「うーん……今回は、こっちかな?」
 片方の瓶のフタを開け、中の液体をヒモ全体にていねいに染み込ませていった。小瓶は空になった。使わなかった方の瓶は元通りにしまう。液体が十分染み込むのを待ってから2本のナイフの小環にヒモを通し、その両端もそれぞれナイフの小環に結びつけた。ヒモを3等分するような間隔でナイフが連なる。それを持って、クラーケンの足のすぐそばまで移動した。
「うわっと」
 船の揺れに足を取られて少しよろける。その拍子に持っていたナイフがクラーケンの足をかすめてしまった。傷口から体液がほとばしり、ラプラの金髪を黒く汚す。けれどクラーケンには痛がる様子がない。
「……痛くないのかな」
 それならかえって好都合だ。ラプラは作業を続けた。
 まず、片方の端のナイフを足の一番外側に突き刺した。そこからも黒い体液がごぼごぼと溢れ出る。それから、両手を広げても少し余るほどの太さの足に、ヒモがしっかり食い込むように2本目、3本目のナイフも打ち込んでいく。最後に反対側に回り込んで、もう片方の端のナイフをぎりぎりと引っぱってから同様に突き刺すと、完全ではないがクラーケンの足にヒモがかけられ、くさびで食い込ませたようになった。
 ヒモをかけたといっても、指よりも細いくらいのヒモ1本では、クラーケンの足をつなぎとめる役には立たないだろう。しかしこれで十分だった。
 ラプラは仕掛けから少し離れた。髪をひとふさ摘まんで見ると、真っ黒に染まっている。
「やっぱり黒か。そうすると、聖水を使ったのは正解だったかな?」
 さきほどの小瓶、もう一方の中身は油だった。火をつけて燃やすべきか、聖水で浄化すべきか悩んだのだが、先日の甲板で見た不気味な光景をラプラは忘れていなかった。
「もしかすると、この黒い体液も放っておいたら消えるかもしれない……」
 だとすれば聖水は間違いなく効果があるはずだ。
 ラプラは十分距離をとって、手を組んだ。
 昔、旅の途中で出会った巡礼者から教わった祈りの言葉。
『邪なるものに聖水を注ぎ、祈りを唱えれば、その闇はたちまち浄化されるのです』
「俺は聖職者じゃないけどね。それでも効果があればいいんだが」
 そんな事を言いながら半信半疑で唱えたとたん、ラプラの予想より遥かに劇的な効果が現れた。
 聖水を含んだヒモが何者かに引き絞られるように収縮し、クラーケンの足を一気に切断してしまったのだ。ゆっくり見ている暇もなかった。しかもその断面は黒く焼けただれて、体液は一滴もこぼれない。これには、仕掛けをしたラプラのほうが驚いた。
 船を締め上げようとしていた足は半ばから切断され、支えを失ってズルズルと船からはがれ始めた。揺れの一因だった足が解けて、ようやく船が安定を取り戻そうとする。
 まさにその瞬間に、キルトが渾身の一発を発射したのだ。

     *

「うわッ……!?」
 大きく傾いていた船が、水平に戻ろうとして勢いよく反対側に傾いた。予想もしなかった動きにキルトは一瞬だが気を取られる。その一瞬が命取りになった。狙いよりもほんの少しだけ、軌道がずれてしまった。弾丸はパシュッという音と共に海中に消えた。
「弾けよ、火焔の宝玉!」
 すぐさまジーナは叫んだ。キルトは弾丸を目で追って、海中で爆発したのを確認する。しかしその表情が苦いものに変わった。
「だめだ、少しずれた」
「何だと? どれくらいずれた」
「当たったのは当たったが、致命傷というほどでは、なさそうだ」
 キルトは悔やんだ。船が予想外に大きく揺れたあの一瞬に、なぜ撃ってしまったのか。
 その横顔を冷たい表情でジーナがにらみつける。
「だから、そんなの無茶だって言ったじゃない。どうする気? 致命傷にならなかったなら、あとはどんな攻撃の手段が残ってるって言うのよ?」
 キルトは顔を上げられなかった。ラギが優しく言う。
「僕も見たけれど、十分な傷を負わせることができたみたいだよ。キルトの一撃は見事に決まった。あれなら倒すこともできそうだ。何も心配はいらないからね」
 そんな言葉も、今のキルトには余計に辛いだけだった。
「危ない」
 という、誰かのつぶやきも、聞こえてはいたが気にならなかった。
 キルトはじっと手元の銃を見つめ続けていた。
 甲板の上を何かの影が横切るのが、視界の隅に見えた。
 他の誰かが驚いたような声を出した。
「あっ――」
 キルトは、ずっとうつむいていた。
 だから、その瞬間を、キルトだけが見なかった。

「――――――――ジーナァァッ!!」


「……え……?」
 誰かの絶叫。
 ようやく顔を上げたキルトの目に、ジーナの姿はどこにも映らなかった。
 誰もが一点を見つめている。キルトも振り返った。

 クラーケンの足と共に、今まさに海中に沈もうとするジーナの腕が、一瞬見えて、そして消えた。





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第1章 見えない月の導き