第1章 見えない月の導き


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 注意を左側面に向けていた分だけ、右からの襲撃に対する反応が全員遅れた。
 振り向いたブランガルの視界いっぱいに巨大な何かが音も無くせまる。とっさに剣を構えようとするが、とても間に合わずに真正面から弾き飛ばされた。
「――――かッ!」
 肋骨が何本かきしみ、衝撃で息が止まる。
 その一撃をキルトとラギも同じように食らった。反対側の船縁まで飛ばされて背中を強く打ちつけたらしく、ブランガル同様、起き上がれずにあえぐ。
 いまや、船は嵐の海にでもいるかのように大きく揺れていた。風が無いのが不思議なほどだ。
 海面から次々と現れる巨大な足――無数の吸盤がびっしりとついたそれは、イカの足そのものだった。ただひとつ、大きすぎる点を除けば。
「な……んだこりゃ」
 ようやく声が出るようになったウォンが、目を見開いたまま呆然とつぶやいた。
「1、2、3、……8本以上はあるね。ってことは、イカじゃないかな?」
「なに冷静に数えてんだよ」
「足」
「そうじゃねえだろ!」
 事実を指摘したラプラにウォンが怒鳴る。ルツもさすがに驚いた表情で言った。
「これはどう見てもクラーケンね」
「冗談じゃないわ。クラーケンなんて、伝説の中の魔物でしょう!?」
 ジーナが怒ったように叫ぶ。2本の足が鋭く向かってきたが、左の手首に巻き付けてあった緋色の宝石を全てちぎり取ると、力いっぱい投げつけた。
「――弾けよ、火焔の宝玉!」
 ただ一言、呪文とも言えないような短い言葉だったが、効果は十分だった。
 ジーナの言葉に呼応するように、投げつけられた魔石が真っ白に燃え上がり、爆発した。
 迫っていた足は2本ともなかばから吹き飛び、甲板に落ちる。切断面からは真っ黒な体液がボタボタとこぼれて甲板を汚した。
「すっげぇ!」
「まあね、これくらい何でもないわ」
 得意げに言うジーナの笑顔は、直後に凍りついた。
 切られた足は、ボコボコと傷口が盛り上がったかと思うと、断面からあっという間に新しく生えてきたのだ。
「……うそでしょう……?」
 もとの足よりもむしろ長い。まるで感触を確かめるように2、3度うごめくと、新しく生え変わった足が再び甲板を襲った。
「あぐッ」
 したたかに打ちすえられて、肺をつぶされたような声がジーナの口から洩れる。
「だあああああぁッ!」
 そこにウォンが飛び掛かった。大上段から剣を振り下ろす。しかし渾身の一撃も、直径1メートルもの足には、大したダメージを与えられなかった。ぬるぬると滑りやすい表面の皮が余計に剣の切れ味を鈍らせていた。
 だがそんなことでひるむウォンではない。
「くっそぉ!」
 斬りつけた勢いを殺さずに、そのまま左手を柄にそえて両手で突き込む。
 考えてやったわけではない。いつもどおりの、直感の行動だった。しかしそれが良かった。
 深々と剣の突き刺さった傷口から、黒い体液が噴き出した。それをまともにウォンが浴びる。
「うげッ」
 とっさに目を閉じたのが悪かった。背後から伸びて来た足に巻き取られ、恐ろしい勢いで上空に放り投げられる。この高さから甲板に叩きつけられれば骨の1、2本は覚悟しなければならないかもしれない。
 はじめこそ足の本数を数えていたラプラだったが、もうそんな余裕はなかった。その太さ、その長さからは信じられないような高速で襲いかかってくる足をかわすのが精一杯。甲板の上を転がりながら、どうにか直撃を避けている状態だった。
 3度目の攻撃から何とか身をひねって逃れ、バランスが崩れたのに逆らわずに数回ゴロゴロと転がって体を起こそうとした時、上からウォンの声が降ってくるのに気がついた。
「……ぅぁぁぁああああああああ!」

 ――――どぐッ!

「……ッてぇ……」
 ごしごしと手の甲で顔をこすって、ようやく目をあけたウォンが最初に見たものは、自分の下敷きになっているラプラだった。
「おわっ、何やってんだよこんなところで」
「〜〜〜〜〜〜…ッ」
 苦悶の表情を浮かべたまま、ラプラはしばらく答えられない。かわすどころか、見上げる余裕すらなく、ウォンが落下してくる衝撃を体で受けとめてしまったのだ。ウォンはすぐに飛びのいたが、それでもしばらくラプラは起き上がれなかった。
 船はますます激しく揺れ、ただ立っているだけでも大変になっている。せっかくウォンのつけた傷もすでにどこにあったのか分からないほど、足は見事に復活していた。海面からは相変わらず何本もの足が伸び上がっている。それらにいっせいに襲われれば、この程度の人数では一瞬で蹴散らされてしまったに違いない。だがクラーケンの狙いは甲板上の小さな人間などではなく、《シルフィア号》そのものだったようだ。
 足の一本が異様に長く伸びて、船をまたぐように反対側の海面に突っ込んだ。ひときわ大きく揺れ、船体がきしみ始めた。一本の足が船を巻き取り、締め上げている。想像もできないような光景が現実として目の前にあった。
 ようやく上体を起こしたところで、ラプラもその様子を目にした。壮絶でどこか現実味に欠けた光景。ありえないな、と内心でつぶやいた時、突然胸の奥に鋭い痛みを感じて咳き込んでしまう。
「――げふっ、がっ、かふっ……」
 口元をぬぐった革手袋が、魔物の体液ではないもので暗く濡れて光った。しかしたいして驚きもせず、ラプラはぼやく。
「だから……俺はもともと肉体派じゃないんだってば」
 そこに追い打ちをかけるように、さらに数本の足が突っ込んできた。うんざりとした思いでそれを見る。ただ見ているわけにはいかないので、起き上がりかけていた身体を自分から倒し、その反動でごろんと転がる。緩慢な動作だったが、そのとたん体中の骨や筋肉が悲鳴を上げた。
「ちょっとは、我慢、してくれ」
 ラプラは自分の身体に言い聞かせると、痛みをすべて無視することに決め込んだ。のろりと立ち上がって袖口のナイフをさぐる。しかしいくら突き刺す攻撃が有効だとは言っても、投げたナイフがこの巨体にどこまでダメージを与えられるか。
 少し考えたが、ラプラはナイフをにぎるのをやめた。
「倒すのは他の連中に任せて、俺は船の心配をしてみるか……」
 船が沈めば、どのみち全員助かるまい。ラプラは甲板から放り出されそうになる揺れに何とか耐えつつ、魔物の足が取りついている舳先の方へと向かい始めた。





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第1章 見えない月の導き