第1章 見えない月の導き


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 ウォンとキルトが汗とホコリまみれになっている一方で、甲板はとても穏やかだった。
 警戒は欠かせないが、海面が静かなので何かが潜んでいても簡単に発見できる。
「不幸中の幸いだな」
 ブランガルが苦笑まじりにつぶやいた。
「凪のおかげで海中の敵を警戒しやすい。この調子で進むことができれば、不意打ちを食らわずにすむかもしれん」
 海の魔物との戦いは、常に不意打ちとの戦いでもある。前後左右、さらに船の真下さえも警戒し続けてようやく間近に迫った敵に気がつくことができる。一瞬でも警戒をおこたれば、たちまちスキを突かれて不意打ちを食らう。しかし、不意打ちにさえ気をつければ勝てるというものでもない。
 恐ろしくないと言えば嘘になる。どう考えても太刀打ちできないような伝説の魔物に、わざわざ立ち向かいたがるような物好きはいないだろう。ブランガルも命は惜しいし、船長として船に乗っている全員の安全にも責任を感じている。
 だがその一方で、心のどこか片隅では一人の海の男として抑えきれない高揚も感じていた。海の中で最強を誇る伝説の魔物に遭遇するかもしれない機会――自分もまた、伝説となるかもしれない機会には違いないのだ。

 ラプラは船の左側面を警戒しながら、一人で考えていた。
 敵が、もしもブランガルの言う通りクラーケンだとしたら、ただの客船にすぎない《シルフィア号》に勝ち目はない。ノルディアの大船団でさえ壊滅した相手だ。それでも立ち向かわねばならないのなら、ノルディアの当時の国王より何倍も優れた指揮能力と、慎重に練り上げた作戦と、一人一人の高い実戦能力が欠かせない。そして何よりも大切なのは――
「――生き延びるという意思だな」
 ぽつりと言う。
 それを聞きとがめたシエリが、横から物問いたげな顔でラプラを見上げた。
「つまり俺たちは、魔物を倒すことじゃなく、生き延びることを考えなきゃいけない、というわけだ」
「おまえが言いたいのは、逃げる方法を考えるということか?」
「勝つことは必ずしも倒すことじゃないってことさ。誰がどう考えても、これは無謀な戦いだ。だけど俺たちは、今この海域で起きている事件の真実を最もよく知っている数少ない証人で、これを港の人々に伝えるという重大な役目がある」
 わかるかな、というようにシエリを見返すと、シエリは大きくうなずいた。
「わたしたちはまず第一に生き延びて事の真相を伝えなければならない、ということだな。敵を倒せるかどうかはその次の問題になる。なるほど」
 もう一つうなずいて、シエリは何気なく続けた。
「……つまり、勝算はないということだな」
 ラプラには答えられなかった。

 船の反対側では、ラギが海面を見わたしていた。すぐそばにはジーナがいる。
 ジーナは目を伏せたまま、風の魔法の維持に集中していた。じんわりと額に汗がにじみ、手首の宝石のうち青い石がいくつかちろちろと光を放つ。
 ふと、その右手が海面の方に伸びた。手のひらを下に向け、ほとんど聞き取れないくぐもった声で何事かをつぶやく。呪文のようなそのつぶやきが途切れると、海面で小さな魚が一匹跳ねた。

 ――ぽちゃん。

 もしもこの場にキルトがいれば、聞き覚えのある音だと気がついたかもしれない。だがキルトはこの時、船の底で汗だくになって漕いでいた。今この音を聞いたのは、ラギだけだった。
 ジーナは唇にうっすらと笑みを浮かべ、ぎゅっと右手をにぎり込んだ。その手を上に向け、ゆっくり手のひらを開くと、小さな光のかけらがこぼれた。風もないのにキラキラと飛んでいくそれを目で追いかけて横を向いたところで、ラギとまともに目が合う。思わずギクリと身体がこわばった。
「……脅かさないでよ」
「すみません」
 ラギは夜空のような深い色の瞳で、まっすぐジーナを見据えていた。こんな目で見られたら誰だって不安になるだろう。見透かされそうな恐ろしい眼だ、とジーナは感じた。
 ちょうどその時、舳先の方でブランガルが全員集まるように呼びかけたので、ジーナはラギの視線をかわすことができた。
「残っている戦力で陣形を整えたい」
 ブランガルの主張は、こうだった。
 まず、敵は前後左右どこから襲ってくるか分からない。しかし少ない戦力の分散は危険である。
 そこで全員が船首部分に固まり、背中合せの状態で可能な限り全方位を警戒する。
「悪くありませんね。この状況では最善だと思います」
 ラギが同意し、ルツもうなずいた。
「そうね。下の二人も呼んできた方がいいかしら?」
「一人でも多い方がいいからな。そうしてくれ。風は頼めるか?」
 ジーナの方に向けて聞く。
「もう一度呪文を唱えなおせば、あとちょっとくらいなら維持できるわよ」
「やってくれ。それと、あんたは……」
 ブランガルに振り向かれて、ラプラは苦笑を浮かべた。
「ま、どれだけ役に立てるか分からないけど、やれるだけお手伝いしますよ」
 額の傷に気をつけながら、緑の帽子をかぶりなおす。袖口のナイフを調べ、いつでも取り出せるように調整した。それから思い出したように、隣のシエリに言う。
「もちろん船室に降りてるだろう?」
「もちろんここにいるぞ」
 即答だった。
 しかしここで頭を抱えている場合ではない。
「聞き分けのないこと言わないで、とにかく安全なところに行っててくれってば」
「傭兵として乗ったのだろう? ならばこういう時こそ戦わなければ意味がないぞ」
「あんたみたいなお子様がここにいて、何の役に立つって言うのよ?」
 ジーナの辛辣な一言にも、シエリは動じない。
「おまえは何の役に立つのだ?」
「あら、戦闘における魔法師の役割は様々よ。攻撃魔法、回復魔法、仲間を補助する魔法。あたしみたいな優秀な高位魔法師にもなれば、どんな魔法だってお手のものよ」
 高飛車に言い放つ。
「そりゃあ心強いね。さ、シエリ、そういうことだから、おとなしく下に降りててくれ」
 ラプラは無駄に返事を待ったりはしなかった。言うが早いかシエリの背中をぐいぐい押して、船室への階段を突き落とすように降りさせた。
 これでよし、と言わんばかりに両手をパンパンと払う。
 最後に、ブランガルの視線はルツに向いた。無言の問いかけにルツはしばらく黙っていたが、やがてふぅっと一つ息を吐くと、両手を腰にあてて宣言した。
「私も相手によってはそれなりに戦う手段を心得ているわ。力の及ぶ範囲で、協力しましょう」
「助かる」
 ほっとした様子で言うブランガルに、鋭い眼差しで付け加える。
「ただし、私はあくまでも客として乗ったんだから、戦いに参加させられるからには別料金を要求するわよ」
「なっ!? こ、こういった緊急事態に、料金も何もないだろうが!」
「どこにでもいるのよね、そうやってどさくさに紛れて支払いを踏み倒す男」
 ルツは、この件に関しては一歩も譲らず、とうとうブランガルが押し負けたのだった。
「まあ、いい、港に帰還すれば報奨金が手に入る……それで支払えばいいんだから……」
 などとブツブツ言っていたが、そういったことはルツの耳には入らないようだった。
「さてと。二人を呼びに行かなくちゃならないわね」
「……どうやらその必要はなさそうです」
 ラギが階段の方を指さすと、ちょうどそこからウォンの頭が飛び出すところだった。
「おい! 船の下になんか居るぞ!」
「櫂の手応えが変わったんだ」
 すぐ後ろからキルトも続いた。口々にわめく。
 その言葉に、全員が緊張する。ブランガルが叫んだ。
「戦闘配置! お前達もこっちに来て固まって、全方位に意識を集中しろ!」
 とたんに目が輝き出すのがウォンだ。待ってましたとばかりに背の剣を引き抜き、ラギの横に身を寄せて右脇に構えた。
 キルトも皆が固まっているところに走り寄ったが、ウォンと正反対の場所に並ぶ。ちょうど、少し離れた背中合せのような位置だった。視界にその姿がまったく入らない位置とも言える。
「よく見ていろ。どんな小さな変化も見逃すな!」
 ウォン、キルト、ラギ、ラプラ、ルツ、ジーナ、そしてブランガル。誰も一言も発さず、それぞれの先方をひたと見据えたまま、全身の感覚を総動員して敵の姿を探した。
 帆に当たるかすかな風以外は、髪をそよがす風もなく、波もない。海鳥の鳴き声も、海面を跳ねる魚の水音も、何一つしない。ふだんは意識しない自分の心臓の音が急にうるさく感じられて、キルトは銃を握りなおした。なぜか手に汗がにじんで、グリップが滑りそうになる。
 長い、長い一瞬が過ぎた。

 ……ごぼっ……

「左っ!?」
 全員が、船の左側面を振り向いた。
 海中で何かが動いたような音がしたのだが、しかしそちらには影も見えない。
「なんだ? 気のせいかよ」
 多少警戒しつつも、ウォンが身体を乗り出して確認する。
 船縁から海中をのぞき込んだが、いくら目を凝らしても何も見えなかった。
「……何か見えるか?」
「いやー、何もいねえぜ。脅かしやがって」
 張りつめていた緊張が解けた口調でブランガルに答える。そのままくるりと振り返ったところで、ウォンの動きがぴたりと止まった。
 他の全員が、ウォンに注目している。
「――あ――」
 ウォンは、その誰の顔も見ていなかった。
 ちょうど正面にいたキルトの、もっと後方を目を見開いて見つめている。
 一瞬の、間があった。
 ブランガルの首筋に冷ややかな汗がひとすじ伝う。


「――――逆か!!」





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第1章 見えない月の導き