第1章 見えない月の導き


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 ざざざ、ざざざー、ざざざー……。
「……二人はどんな具合だ?」
 波の音にかぶせるように、ブランガルがたずねた。
「危ない状態ね。あと何日でユーゼリア大陸に着くか、それによって彼らの運命も決まるわ」
「この風のまま何事もなければ、あと二日もあれば着くだろう」
「魔法師の彼女は、海の魔物はマーメイドだったからもう航海は安全だろうと言っていたわね」
 ざー……、ざぁー……。
「残念ながら俺の船乗りのカンが、まだ大物が残っていると言っているがな」
「大物? それはどれくらいやっかいな大物かしら」
「伝説級にやっかいな大物だ……」
 ざ、ざ……ぁ……。
「あなたの根拠は、カンだけなの?」
「実はどうしても気になってることがある。ジークの……13隻目の船長の、最期の言葉だ」
「彼は何と?」
「……聞くが、この時期に『月』と言われたら、あんたなら何の月を思い浮かべる?」
「この時期? そうね……黒月かしら。あるとしたらの話だけれど」
「ジークの言葉は短かったが……もしかすると奴も、黒月《ラムダ》の魔物のことを言いたかったのかもしれん」
 ……っざぁ………。
「今この船に残されている戦力は、魔法師の傭兵、シュフィール卿、緑の帽子の優男、あとはあんたのところのガキ共が二人。うちの連中は確かに力自慢だが、武器をとっての戦いに、けっして慣れてるわけじゃない」
「このまま進んで、その伝説級にやっかいな大物さんに出会う可能性は?」
「極めて高いと思っている。いや、遭遇するのはもう間違いないだろう。問題はこの戦力で無事に乗り切れるかどうかだが」
 ……、……。
「敵の正体が分かっただけでも、この航海の意義は十分にあったと思うわよ」
「まだ確かに分かったわけではないがな」
 ――――――。
「………? 風が……」
「何?」

 ブランガル船長と、ルツ。
 海の上で迎える二度目の日の出が、甲板の二人をまぶしく照らしていた。
 他の者はまだ誰も起きてこないほどの早朝、海鳥の姿も無く、水面を跳ねる魚もおらず、ただ海の波の音だけが二人を包んでいた。その音が、急に途切れたのだ。

「……凪だ!」

 ブランガルは血相を変えた。
「そんな馬鹿な! このあたりの海域で凪が起こることなどありえん」
「まあ落ち着きましょう。起こってしまったことをどうこう言っても仕方がないから、次にどうするかを考えた方が利口というものよ」
「そんな気楽に構えていられるか! この船は帆船だ、風が無ければろくに前へは進まんぞ」
 帆船に乗る者にとって、海上で出会う凪は恐ろしいものだ。
 風さえ吹けば神業のように自由自在に船を操る男たちも、凪には太刀打ちできない。動けないわけではないが、敵に出会っても、逃げ出すことさえままならないだろう。おまけに今は重症の人間を二人もかかえている。
「この状態で襲われるのは最悪だ。運良く襲われなかったとしても、船はほとんど進めん。あの二人は、具体的にあと何日くらいもちそうなんだ?」
「何とも言えないわ。私は医者じゃないもの」
 ルツは正直に答えた。
「けれど、そうね。あと四日以内にどこか大きな街の治療院に移さないと、命に係わると思うわよ」
「この凪がどれくらい続くのか、見当もつかん。だいたいなぜこんなところで凪になるのか、わけがわからん」
「そう? 私には何となく分かるような気がするわよ」
 ルツは冷めた表情で白く光る水平線を見つめた。
「伝説の魔物さんになら、これくらいのことはできそうじゃない?」
 それはあまりにも有り難くない予言だった。

     *

「いつまでこうしてりゃいいんだよ!」
 結局、昼を過ぎても風はまったく吹かなかった。
 誰よりも早くしびれを切らしたのは、ウォン。生来、じっとしているのは苦手らしい。それは分かっていたが、騒いでもどうにもならない時くらい少し落ち着けないものだろうか、とルツは黙ってウォンを見ていた。
「なあ、櫂があっただろ。あれ使って全員で漕ごうぜ。こうやってじっと風が吹くのを待ってるより、ちったあ進むだろ?」
「じゃあお前が漕いでこい」
 イライラしていたのはウォンだけではない。口に出して騒いでいたわけではなかったが、キルトもウォンと同じくらい焦れていた。それに、もともと性格の合わない二人だ。
「どうせ馬鹿力があり余ってるんだろう」
「おめーこそ、そんなナヨナヨした腕じゃ1ミリだって船を進められねえだろうな」
「やるか、この単細胞バカが!」
「うるせえモヤシ!」
 取っ組み合う二人を、しかし誰も止めない。
「元気いいねえ」
「若さよね」
「仲良しなんだね」
「ラプラとジーナの意見はともかく、あなたのはちょっと違うような気がするけど」
 ルツは、ラギの爽やかな笑顔をまじまじと見た。
 昨夜遅くに服を洗ったラギは、朝までに乾かなかったので船にあった予備の船乗り用の上着を借りて着ていた。その、背中側が大きな方形になっている特徴的な襟の形が、妙に可愛らしい。
「あれが仲良し二人組に見えるかしら」
「二人とも同じことを考えているし、意思の疎通も速いので」
 今にも背中の剣を抜きそうなウォンと、既に右手が銃のホルダーにかかっているキルト。それを仲の良い関係と見るかどうかだが。
「……いや、意外といい考えかもしれんぞ」
「え?」
 腕を組んだまま、難しい表情でそう言ったのはブランガルだった。
「この凪は十中八九、海の魔物のせいだ。それならここでじっと待っているより、こっちから打って出た方がいいかもしれん」
「なぁ、あんたもそう思うだろ? やっぱ船長は話がわかるぜ!」
 キルトの襟首をつかんだまま、ウォンが嬉しそうに会話に入ってきた。
「よし、お前たち二人、ちょっと下に降りて漕いでこい」
「げっ!」
「二人? 二人っていうのは、この馬鹿と俺のことか?」
 ウォンとキルトの動きが止まる。
「そのために雇った人夫だ。行って、存分に働いてこい」
「そうね。最初からそういう約束で乗せてもらったんだし」
 ブランガルの言葉が二人の背中を冷たく突き放し、ルツの一言がとどめになった。
 日頃から絶対にそりの合わないウォンとキルトが二人だけになったらいったいどれ程ひどい有り様になるか、と甲板の多くの人物が心配していたが、実際に二人だけになると意外なことにどちらもおとなしくなった。無言だからこそ、かえって剣呑な雰囲気が漂っているということもあるのだが。
 船の最底部まで階段を降りると、両側の壁から数本の棒が斜めに突き出していた。櫂の柄だろう。しかし、少々小型の船といっても、10人からの乗客を運べる大きさだ。もともとは帆船だから、これらの櫂も緊急用のものに違いない。
 キルトが柄を軽く握ってみると、ほこりが大量に舞い上がった。
「うわっ」
 慌てて手をばたばたと振り回す。軽く咳き込んでいると、反対側でもウォンが同様にむせていた。
「すっげーゴミだらけ。何年使ってねーんだよこれ」
「動かないなんてことは無いだろうな……」
 二人とも、相手に話しかけている意識はない。ひとり言だ。思わずつぶやいてしまうくらい、何年も人の手が入っていないのが明らかなひどい状態だったのだ。
 それでもウォンは、櫂の柄にかけた手に力を込めた。
「ま、おめーには動かせねえかもな。片側ばっか漕いでも船は前に進まねえって、知ってっか?」
「貴様こそ、櫂は滅茶苦茶に動かしても役に立たないってことを分かってるんだろうな」
 言われっぱなしで黙っていられる性分ではない。いつの間にか、決着は櫂で、という意識になっている。
 二人とも、憤然と櫂を動かし始めた。

 驚いたのは甲板に残った人々だ。
「うわあ、動いたよ」
 ラプラは笑い出しそうな声で言った。
「まさか本当に動かせるとは思ってなかったんだが……」
 ブランガルはほとんど呆然とつぶやいた。
「たった二人の力だけで、このくらいの船が動くものだろうか」
 シエリが真面目に考え込めば、
「ああいった意地の張り合いには限度がないのよ」
 ルツがいつもの冷めた調子で言う。
 だが、火事場の馬鹿力では長続きしない。遠からず船は止まってしまうだろう、と思っていたら、ジーナが手をあげた。
「それじゃ、坊やたちの頑張りを無駄にしないように、あたしが手伝ってあげましょうか」
「魔法で?」
「そうよ。風を起こすの。あんまり広範囲に使うと疲れちゃうけど、この船の帆に当てる分の風くらいならなんとか維持できそうだわ」
「そういうことができるなら、最初からやってくれれば良かったじゃないか!」
 思わず叫んでしまったブランガルを誰が責められようか。
「怒鳴らないでよ。あたしだってまさか、こんなにずぅっと風が吹かないだなんて思わなかったんだもの。それに十分な風力を必要な時間維持するのはとっても大変なんだから。下の坊やたちのお手伝いくらいならできるかな? って思ったのよ」
 拗ねたような言い方が、子供っぽい。しかし他の誰にも同じようなことはできないのだから、ここでジーナに文句を言っても仕方がない。
 やってくれ、と言っておとなしくブランガルは引き下がった。
 ジーナの手際はとても鮮やかなもので、揚がりっぱなしの帆がすぐに風を受けて丸く膨らんだ。
「不思議だな。帆には風が当たっているのに、俺たちにはさっぱり風が感じられない」
「そんな無駄遣い、できないもの」
 少し無機質な声でジーナは答えた。術の維持にかなり集中が必要らしく、他のことにはあまり注意を向けられないようだ。邪魔をしないように、他の皆はジーナから少し離れて様子を見守ることにした。
「これで上手く敵の裏がかければ、もしかすると何とか切りぬけられるかもしれないな」
 ブランガルは少し明るくなった先行きを思って、久しぶりに笑った。

     *

 その人物は、これまでになく焦っていた。
 珍しいことだった。物事が定めた通りにいかないなどということは。
 このままでは、まずい。
 予定がずいぶん狂ってしまっている。どこかで修正しなければならない。今までは全てうまくいったのに。こんな事態は予想していなかった。
 うまくやらなければ。
 真実が、誰にも分からないようにやらなければ。





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第1章 見えない月の導き