第1章 見えない月の導き


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 午後、《シルフィア号》の中でもっとも忙しかったのは、他でもないルツだった。
 サンクは特に外傷が無かったとはいえ一度は死にかけ、あのあと昏睡状態になってから、まだ意識が戻っていない。カイツは傷による高熱と、大量の失血による衰弱がひどい。もちろん意識も無い。マーメイルとの戦闘でウォンやブランガルなどは、致命傷ではないものの傷を負っている。
 ルツはそれら全員のために薬を調合し、一人一人の看病に走りまわった。
 ようやくやることがなくなって一息ついたら、すでに空が薄暗くなっていた。
「あー……肩が凝るわ」
 甲板に積んであった木箱に腰掛けて、片手で自分の首筋を軽く叩く。
 そこにシエリがスープ皿を持って上がってきた。
「食事? あらもうそんな時間なのね」
 ありがとう、と言ってルツは皿を受け取った。スプーンで軽くかき混ぜて、匂いをかいでから少し眉をひそめる。
「……変わった香りね」
「食べたことのない味だったぞ」
 シエリがうなずく。
 特別まずいわけではないだろうと判断したルツは、しかし一口含んで、何とも言いがたい表情になった。
「おいしく……ないわけじゃないけど」
 ルツはスープに疑いの眼差しを向けた。
「キルトはまだ寝てるのよね……これ、誰が作ったの?」
 シエリは平然と答えた。
「ウォンだ」
 思わずむせそうになりながら、ルツはどうにか飲み込む。
「……あの子、食べられるものを作れたの?」
 ルツは残りを食べるべきかどうか悩む顔つきになった。
「わたしとラギはもう食べたから、とりあえず、食べられるものだったということだと思うぞ」
「まあ、いざとなったらお腹の薬も持ってるし……」
「ルツは、ウォンのことを信用していないのか」
「いいえ、信頼していないのよ」
 食べながら、ルツは素っ気なく答えた。
 ちょうど食べ終わった頃に、下からルツを呼ぶ声がした。
「何だ?」
「さっき針を抜いておいたから、そろそろみんな正気に返ったんじゃないかしら」
 そう言って立ち上がると、ルツはシエリと連れ立って下へ降りていった。

     *

 重体のサンクとカイツの二人はまだ意識が戻っていなかったが、針を抜かれた三人は首筋を気にしながらも起き上がっていた。
「具合はどう?」
 ルツの問いかけに、ブランガルが少しかすれた声で「最悪だ」と答えた。
「おかしいわね、ちゃんとした気付け薬を調合したと思ったんだけれど」
「夢見が悪かった」
 あいかわらず渋い表情のまま、ブランガルは自分の見た夢をぽつりぽつりと語った。
「まるで生きているかのように……何だったんだ? すぐ目の前にジークがいた。もっと小さな船に乗っていて、俺達は同じ水夫で……ちくしょう、気味が悪い。しかもその時には不思議にも何にも思わなかったんだから、なおさらだ」
「俺も、似たような夢を見たような気がする」
 キルトがそれに同調した。
「呼ばれて……そっちに行こうとしたんだが、なぜか全然前に進めなかった」
「私がつかまえていてあげたからよ。ほっといたらそのまま海の藻屑だったわ」
 ラプラが「そうか」と声を上げた。
「幻覚だったのか……」
「『人魚の唄』だぞ。わたしが倒れたのもそのせいだった」
 シエリが教える。
「ああ……そうか。それで……」
 ラプラは何かを思い出すような表情をして、小さく微笑んだ。
「……俺は、ちょっといい夢を見せてもらったかな」
「いい夢? どんな?」
「家族みたいに大切だった人達の想い出」
 短く答えて、それ以上は口を開かなかった。ルツがぱんっと手を叩いて注意を集める。
「さあ、身体に異常がないならさっさと起きる。私はこっちの二人の様子を看なきゃならないから、元気な人達は出ていってちょうだい」
「サンクとカイツか。大丈夫なのか?」
 ブランガルが心配げに聞くが、ルツの答えは素っ気ない。
「責任は持てないわ。でもやれるだけのことはやる。ここは治療院じゃないんだから、最高の治療は期待しないで」
 謙虚な発言でも、その口元には自信ありげな微笑みがある。それを確認してブランガルも笑って答えた。
「それで十分だ。ありがとう。――さて、俺達は作戦会議といこうか」
 寝ている二人のそばにルツだけを残して、全員が移動する。
「なあその服、洗った方がいいんじゃねえか?」
 ウォンがラギの血染めの服を指でつまんで言う。
「僕は気にならないけれど」
「血の汚れはすぐ落とさないと取れないわよ」
 ジーナが「洗ってあげましょうか」と手を出したが、ラギはやんわりと断わった。
「もう染みになってしまっているだろうし、自分で洗えます」
 それでも「ありがとう」と礼の一言を忘れないのが、いかにもラギらしい。
「それじゃ後から来てくれ。食堂で先に始めているから」
 そう言ってブランガルは、他の皆を引き連れて食堂に入って行った。


「……すると、敵はマーメイドとそれが操るマーメイル達だったというわけか?」
 ジーナの報告を受けて、ブランガルは状況をまとめてみた。
「ええ、そう。船に乗る用心棒なんて、たいていが男でしょ? だからマーメイドに気付かずに、みんな海の藻屑になってしまったんじゃないかしら」
「確かにジークの船にも男ばかりが乗っていたと思う。だが、あいつは普段からとても慎重だった」
 乗組員の数と船の性能をよく把握して、どんな装備が必要か、航海中にはどんな点に気をつけるべきか、そういったことに常に気を配るような男だった。12隻が沈められたと知っていて、何の対策も取らずに出ていったとは考えられない。おそらく、マーメイドが出没する可能性についても考慮して、乗組員全員に耳栓を用意するくらいのことはしていたはずだ。見張りがマーメイルに気がつけば、即座に耳栓をするように指示しただろう。
「確かに、マーメイドの幻覚に惑わされてマーメイルにやられた可能性もあるが」
「他にも何か気になることが?」
 ラプラの問いに、ブランガルはうなずいた。
「傷だ。ジークの船に乗っていた連中は、強い力でひねり潰されたような怪我を負っていた。マーメイルの攻撃は、鉤爪で、こうだろう?」
 片手を大きく振りかぶり、爪を立てるように振り下ろす。
「なあなあ、ひねり潰すような攻撃をする海の化物って何かいるのか?」
 ウォンが興味を持った様子で身を乗り出した。ブランガルはうーむと考えて、こう答えた。
「俺は魔物に詳しいわけじゃないが、まあ、昔から海の巨大な化物といったら、クラーケンだな」
「なんだそりゃ?」
 ラプラが分かりやすい説明を付け足す。
「イカとかタコの大きなやつだよ。ほら、食べたことないかい?」
「あるぜ。歯応えがあってけっこうイケるよな」
「それだよ」
「――はぁ?」
 ウォンは目が点になる。
「冗談だろ! あんなぐにゃぐにゃの足でどうやったら攻撃できるんだよ」
「大きいからな。この船とは比べものにならんくらい巨大な化物だから、十分可能だろう」
 ブランガルは自分で言ったその可能性について、真剣に考え始めていた。
 確かにあり得ることだ。クラーケンによって壊滅させられた大船団の伝説は、船乗りなら誰もが知っている。
「もし本当にこの海域に出没するのがクラーケンなら、とんでもないことなんだが……」
「なぜだ? マーメイドが出たのがよくある事なら、クラーケンの一匹や二匹出てきても、そう驚くことじゃないだろう」
 キルトは、実はあまり海について詳しくない。マーメイドもクラーケンも、みんな海の魔物ということには違いないだろうと思った。
「お前は、内陸部の生まれか」
 いきなりブランガルに断言されてムッとしたが、事実だったのでこっくりうなずく。
「マーメイドもそんなにしょっちゅうお目にかかるような魔物じゃないが、それなりに存在しているのが分かっている。だがクラーケンは別だ。あれは伝説なんだ」
「ノルディアの大船団のことかな」
 ラプラが伝説について語り始めた。
 遠い遠い昔、まだラグランシアの大華三国もちっぽけな小国だったころ。ノルディアという国はその頃からすでに造船のさかんな工業国だった。その造船技術の粋を極めて、時のノルディア国王が大船団を造らせた。巨大な砲台を何基も据えつけ、分厚い装甲に外周を固めた、百人もの兵士を載せることができる大戦艦を、何十隻も揃えたのだ。
 それは恐ろしい軍事力の象徴となって他国を圧倒した。向かうところ敵なし、連戦連勝の無敵艦隊として、ノルディアの大船団は全世界にその名を轟かせた。ちょうどそのころ、神出鬼没の謎の大海獣が世界中の人々を震え上がらせていた。意気揚々のノルディア国王は、次なる敵を人外の魔物に定めたのだ。
「……というのが、ノルディア大船団の伝説。これに出てくる海の怪物というのが、クラーケンなんだよ」
「それでその船団とクラーケンの戦いは、どうなったんだ?」
「どうもこうも。気付いた時にはクラーケンの縄張りのど真ん中、四方八方から飛び出す巨大な足が船を叩き壊し兵士を引きちぎって、あっという間にノルディアの大船団は壊滅したのさ。たった一匹のクラーケン相手に手も足も出なかったわけだ」
「それが本当なら……そんな怪物相手に、この船一隻じゃどうにもならないんじゃないのか?」
「でもそれってただの伝説なんだろ?」
 キルトとウォンが、口々にたずねる。
「何もないところに伝説は生まれないさ。こういう伝説が残っているってことは、何か似たような事実があったってことだよ。そう考えると、クラーケンが居たとしてもおかしくはない。おかしくないけど、もし本当にこの海の魔物がクラーケンだったら……」
「そうとう、まずい。正直に言えば、そんな伝説の怪物が出てくるとは今の今まで想像もしていなかったから、何の作戦も考えていないしな。だがまあ、そう簡単に伝説の魔物が出てくるようなこともあるまいよ」
 最後のほうは軽い口調で、つとめて明るく言い切った。
 しかしそう信じたい気持ちがある一方で、ブランガルの心の片隅にはジークの船の惨状が焼きついて離れない。ただの魔物の仕業ではない、と確信したあの時の自分の直感は正しいのか。

「……いずれ、分かることだ」

 たとえ、分かった時には手遅れだとしても。
 ブランガルの胸の内に拭い切れない不安を抱えながら、会議はそこで解散になった。
 平穏に時間が過ぎてゆく夜は、嵐の前の静けさなのかもしれない。





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