第1章 見えない月の導き
「キルト?」
名を呼ばれて、思わず振り向いた。そこには懐かしい友が立っていた。
そんなはずはない、とは思わなかった。気持ちは一気に故郷にいた頃へと飛んで、緑の草原と突き抜ける蒼天を見上げていた。そこに、彼が居る。いつか一緒に飛ぼう――そう誓った。
笑顔で手をさしだしている。
そうだ、今日は彼の制作中の飛空機を見せてもらう約束だった。
行かなくては、と思うのだが、なぜか身体が思うように動かない。前に進もうともがくのに、彼との距離が縮まらない。
「何やってるの!?」
ルツは、その場でただ一人平静をたもっていたジーナに詰め寄った。
甲板に上がってきてみれば、男たちがふらふらと船べりを乗り越えようとしている。とっさに近くに居たキルトを羽交い締めにして、ジーナに怒鳴った。
「あなた、魔法師なんでしょう? 何とかしたらどうなの、これは『人魚の唄』よ。彼らの目を醒まさせる方法はないの?」
「とりあえず気絶させれば海には落ちないと思うわ。でも……そうしたらこのマーメイル達の相手を全部あたしがすることになるのよ。こんな数、あたしだけじゃ相手にできないじゃない」
「だからって海に落ちるのをただ見ているつもり!?」
呆れたように吐き捨てて、ルツは頭の後ろに片手を回した。艶やかな黒髪をひとまとめにしているところに、赤や蒼のピンが刺さっていた。それを引き抜いた――ピンのように見えたそれは、長めの針になっていた。
素早くキルトの後ろの首筋に突き刺す。キルトは一瞬ぴくっと震えたかと思うと、その場にくたりと倒れ込んだ。
「ちょっと待ってなさい」
もう何本か髪から針を抜き取ると、四方に鋭く放った。今にも海に落ちそうになっていた男たちに次々と刺さる。その狙いは正確にブランガルとラプラの首筋を捉えたが、ラギのは少しそれて左の上腕に当たってしまった。そして、
「いってぇ!」
ウォンは飛び上がって叫んだ。
「何しやがる!」
「あら。ちょっとずれたかしら」
悪びれずに言う。ツボに決まれば一時的に筋肉を麻痺させることのできる針だったのだが、少しでも外れればそんな効果はまったくない。ただ単に、長い針が首に突き刺さっただけということになる。
「でも、そのおかげで目が醒めたみたいだから、まぁ良かったってことよね」
それより、ラギは――そう思ってそちらを見ると、ちょうど二匹のマーメイルが左右から襲いかかるところだった。
「ウォン、ラギの援護!」
ためらわずに叫んだ。ウォンもとっさに反応して、ラギの元へ駆けつける。しかし、その心配は無用だった。
ぼんやり立っているように見えたラギは、マーメイルの攻撃が繰り出される瞬間、わずかに重心を前に動かして紙一重でそれをかわし、振り向きざまに一太刀で2体を倒してしまった。
駆けつけたものの何もすることが無かったウォンは、その様子をあっけにとられて見つめていた。
そんなウォンに気がついて、ラギはにっこり微笑んだ。
「心配してくれて、ありがとう。僕は、もう大丈夫だから」
残るマーメイルは1体。暴れ足りない、とばかりにウォンはがむしゃらに突っ込んでいき、何度か斬りつけてそれが無駄だと分かると、力いっぱい剣を突きたてた。それでようやくマーメイルが倒れた時には、ウォンもすっかり息が上がっていた。あちこちに細かい傷も負っている。
甲板には相変わらず甘ったるい歌声が届いていたが、ウォンもラギも既にその魔力から逃れているようだった。ルツもためしに耳を澄ますが、どこか媚びるようで鬱陶しい声には何の感動も覚えない。むしろ不快ですらある。
「こんな声のどこが心地好いのかしらね?」
「別に気持ちいいわけじゃねえけど。なんか、聴いてるうちに夢を見てるような感じになってたんだよな」
ウォンががりがりと頭をかいた。
「あんたはどうして正気に戻ったの?」
「てめえが針をぶっ刺したからだろうが!」
「『人魚の唄』は一種の魔法よ。それが単なる針の一刺しくらいで正気に返ったりはしないでしょう。……魔法が効きにくい体質だったのかしら?」
「わかんねーけど、昔の夢を見たぜ。だからどうしたって感じだったけどな」
「あなたも、そう?」
ルツはラギを振り返った。
「僕は……何も見ませんでした」
深い笑みを浮かべるラギの様子は、いつもどおりに見える。だが群青の瞳の奥に、底の見えない何かをちらりと垣間見たような気がした。ルツがその正体を探ろうとする前に、ラギの方がすっと視線をそらせてしまう。
「ほかの人たちも、どうにか正気に返さないと」
「ああ、そうね。それはあそこの魔法師さんがやってくれるんじゃないかしら?」
ルツが顔を向けたそこに、悄然と立ちすくむジーナがいた。
「対抗魔法を使うか、マーメイドを倒すまでは、この針を抜けないし…」
甲板には、死んだように倒れて動かない男たちが3人。カイツとライモンの二人の姿が見当たらないことに気付いて、ルツはウォンに尋ねた。
「他の二人はどこにいるの?」
「知らねえよ。オレ達が上に来た時には、船の連中はもうどこにも居なかったぜ。そいつが死にかけてたのを、ラギが生き返らせたんだ」
サンクを指差してそう答え、あ、と思い出したように付け足す。
「そういえば見張り台にも一人居たんだった。なんつったっけ、槍使いの」
「カイツだね。どんな様子だった?」
ラギが聞く。
「ああ、血だらけだった」
「そういう事は先に言いなさい!」
「いてぇな! 蹴るなよ!」
「ケガをしてるなら、早く降ろさないと」
ウォンとラギ、二人がかりでカイツを下まで降ろしてくるあいだ、ルツはジーナと相談していた。
「あなた、回復魔法は?」
「あたし? あんまり得意じゃないわ。死にそうな人を回復させるのなんてとっても無理よ。まだ元気が残ってる人なら少しは回復させられると思うけど」
「そう……私も回復魔法なんて使えないし」
ルツが用いるのはもっぱら薬だ。しかし、病気や毒に対するものならともかく、外傷を一瞬で治してしまうような薬などない。もしもカイツが致命傷を負っているようなら、やっかいなことになる。
「それじゃ、『人魚の唄』に何か有効な対抗魔法は?」
「一番簡単なのは、一時的に耳を聞こえなくすることね。それならあたしもすぐにできるわよ。『唄』の効力を打ち消すような対抗魔法は、ちょっと難しいし…たぶん、できるとしてもすごく時間がかかるわ」
「耳栓するのが一番ってことね」
ちょっと考えてから、ルツはもう一度尋ねた。
「耳を聞こえなくさせてから彼らの意識を戻したとして……状況を説明するにはどうしたらいいのかしら?」
ジーナは無言で肩をすくめた。そんなことはできない、という意思表示だ。
「ちょっとでも魔法を解けば、その瞬間に『唄』の魔力に絡めとられてしまうわよ。わざわざ起こしたりしないで、彼らはこのまま放っておいた方がいいんじゃないかしら?」
冷たい言い方だったが、間違ってはいなかった。
「じゃあ、マーメイドを倒す方法は?」
「それこそ聞いたこともないわ。マーメイドって本来はすごく非力な魔物で、『人魚の唄』の力が無ければほとんど無害みたいなものだもの。やっかいなマーメイルもあらかた倒してしまったし、マーメイドを無理に倒さなくても、耳を塞いで、このまま通り抜けてしまえばいいんじゃないかしら? そして、両岸の港に耳栓を用意して航海するように教えてあげれば、問題は解決だわ」
「……そうかしらね」
ジーナの言い分は、理屈の上では少なくとも正しいように思えた。しかしルツの直感が、どこかで騒いでいた。まだ問題は解決していない、という胸騒ぎ。
そこに、カイツが降ろされてきた。黒い服装のせいで、顔にべったりついていた血の痕以外、出血しているようには見えにくい。しかし黒い衣服はぐっしょりと濡れていて、大量の出血があったことがわかる。
「うわっ! すげー血じゃんか!」
ウォンが、ぎょっとしてラギを指差した。ラギの白い服が、おびただしい血によって真っ赤に染まっていたのだ。
「かなり、ひどそうだ……」
「さっき、サンクって奴を生き返らせただろ? 同じようにやればいいんじゃねえの?」
ウォンはなぜラギがそうしないのか不思議だった。
「できない。サンクは厳密に言うと、まだ死んでいなかったんだよ。特に外傷もなかった。でもカイツは、呼吸と脈はまだ大丈夫だけど、外傷と、それに出血がひどい」
ラギの指摘のとおり、カイツにはまだかすかに息があった。
「僕には、回復魔法の心得はありません。誰か、そういう魔法を使えますか?」
ルツもジーナも、首を横に振って答えた。ウォンに至っては答えようとすらしなかった。
「私は魔法よりも薬治療の方が得意なのよ。とりあえず、傷の状態を確認しましょう」
ルツは慣れた手つきでカイツの様子を調べ始めた。ぐっしょりと血で濡れ、ところどころバリバリに固くなっている服をはぎ取りながら、脚や腕、身体につけられた傷の状態を丹念に調べる。
「……!」
ジーナは息を呑んで、口を押えた。そのまま顔を背け、船べりの方に駆け出してしまう。
「……これは、ひどいわね……」
ルツも思いきり顔をしかめた。
肩口から脇の下の方にかけて、腹をばっさりとえぐられていた。
深い傷口からは今もジュクジュクと血があふれ続けている。
「この出血を止めなくちゃね。傷口をふさがなければ、そう長くは……もたないわ」
青い顔のまま戻ってきたジーナが、ごくっとのどを鳴らして、つぶやく。
「血を止めるだけなら」
ジーナは懐から細い小ぶりのナイフを取り出した。手を貸して、と言ってラギに右手を差し出させると、その刃をラギの指先に押し当てて、すっと引く。ラギは軽く顔をしかめたが、何も言わずされるがままになっていた。指の先から赤い血の雫がぽたぽたとこぼれ落ちる。
「その手を、彼の胸に当てていてね」
ラギが言われたとおりにすると、ジーナはその場に座り込んで、両手を少し複雑な形に組んだ。
「――時の狭間 夢の黄昏 暁と宵闇に沈む月
赫から蒼へ 蒼から赫へ 熱き血潮を凍れる血肉へ
命の灯のことわりに従い 零れる流れを導かん――」
低い声で、早口で一息に唱えきる。
ラギは、指先がじわじわと熱を帯びてくるのを感じた。その熱はしだいに手全体に広がり、手首までぼうっと熱くなってきた。それが肘のあたりにまで届くと、今度はひたひたと冷たくなってくる。身体の中の何か熱いものが、指先からこんこんと湧き出ていくような感覚をおぼえた。
「そのまま、手を離さないで。もう少しで出血が止まると思うわ」
「今の魔法は、いったい?」
言われた通り、手は離さないように気をつけながら尋ねる。
「ケガをしている人に負担をかけないで回復させる魔法。元気な人から、ちょっと生気を分けてもらうのよ」
なるほど、とラギは思った。純粋な回復魔法ではなく、エネルギーの移動をうながすたぐいの魔法というわけだ。仲間の中の誰かが元気であれば、普通の回復魔法よりも扱いやすいだろう。
ルツも同じことを思った。
「便利な魔法ね。普通の回復魔法は、基礎中の基礎でもずいぶん疲れさせられるけど、そのわりに回復が少ないから、あまり覚えようという気がしないのよね。これなら、手軽に使えそうだわ」
元気があり余ってる同行者には心当たりがあった。ちらりとウォンを見るが、当の本人は視線にまったく気付かない。
やがてほどなくカイツの出血はおさまった。ラギは少し身体に力が入らないような気がしたが、実際に血を抜いたわけではない。言うなれば「元気さ」を分けたようなものだから、少し休めば回復するだろうと考えた。
「血は止まったけど、傷がふさがったわけじゃないから、絶対安静には変わりないわよ」
それに、流れた血が戻ったわけでもない。できるだけ急いで、しかも安全に、この状況を抜け出さなければならないだろう。
「それじゃ、この海域を抜け出すことを最優先としましょうか」
ルツは3人に告げた。
「さいわい風向きもいいから、このまま何もしなくても半日くらいで人魚の海域を抜けられるわ」
3人はルツの言葉にうなずき、死にかけたサンクとカイツの二人と一緒に、意識の無いブランガルたちもまとめて船室に放り込むこととなった。
「おいルツ、こいつらの針はいつ抜くんだよ?」
「また海に飛び込みそうになったら困るから、半日はそのままで放っておきましょう」
「なんか身体に悪そうだな……」
「もともとは麻酔治療のためのツボだから、二、三日このままでもどうってことないわよ」
しかし身体は衰弱する。ルツはいきなり抱え込むことになった何人もの患者に、頭を悩ませた。
第五話 這い寄る者たち