第1章 見えない月の導き


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 気配に気がついて、ルツは顔を上げた。
 シエリの目が覚めたのだ。
「……気分はどう?」
 そっと声をかけた。シエリは横になったまま目を何度かしばたいていたが、自分がどうして部屋で寝ているのか理解できないようだ。
「何か欲しいものはある?」
 もう一度、声をかける。シエリはようやく首だけ動かして、ルツの方を向いた。
「……大変だ」
 そうつぶやいて、また二、三度まばたく。考え込むような表情になった。
「なぜわたしは寝ているのだ?」
「倒れたからよ。甲板で。覚えている? 昨日のお昼頃、あなたは耳飾りをはずして急に倒れたのよ。今は、もう次の日の朝」
 ルツはシエリの様子を見ながら、ゆっくり説明した。
 それを聞いてシエリも少し驚いたようだった。身体を起こしながら、ひとり言のようにつぶやく。
「そうか……突然だったから、間に合わなかったのだな……」
 そう言って耳に手をやった。
 そこにいつの間にか耳飾りが戻っていることに気がついて、ルツを見る。
「これは誰がつけたのだ?」
「私が。もしかしたらその方がいいのかしら、と思って」
「助かったぞ。おかげで早く目を覚ますことができた」
 シエリが寝台から立ち上がって身仕度をしているあいだ、ルツは今何が起きているかを手短に話して聞かせた。甲板で何かが、おそらくは敵の襲撃が起こっているらしいことを。
 シエリは短く息を飲んだ。
「『唄』だ……」
 くるりと振り向いて、ルツを見据えた。
「大変なのだった。忘れていた、あの時わたしが倒れたのは『人魚の唄』のせいなのだ」
「人魚の? まさか」
 シエリの様子は真剣そのものだったが、信じられなかったルツは笑って答えた。
「そんなはずはないわ。私にも、あの場にいた誰にも、そんなものは聞こえていなかったもの」
「わたしには聞こえる」
 言いながら、シエリは耳飾りに片手をそえる。
「あの時はちょっと油断して、これを外してしまったから」
 ルツは目を見張った。
「それは、つまり……あなたの耳には魔法が掛かっているということかしら?」
 額を軽く押えながら、ルツはそう聞き返した。
 シエリは小さく首をかしげる。
「いや、魔法がかけられているのは耳飾りの方だぞ」
 意図的にそうしているのではないのだろうが、シエリはあまり説明が上手ではなかった。口下手というのではないが、言葉が足りないことが多いのだ。
 ルツがシエリの足りない言葉をあれこれ推測しているうちに、シエリはすっかり身仕度を終えていた。
「――問題なのは、わたしの耳で聞こえる範囲に、マーメイドがいたということだ。気を失ったりしなければ、あの時すぐに警告できたが。もう次の日だということは、そろそろマーメイドが襲ってくるかもしれない」
 ルツも、マーメイドについては多少知識があった。
 海の底にひそみ、しばしば通りかかる船を襲う肉食の魔物だ。マーメイド自身には大した戦闘能力は無いのだが、怪力のマーメイルを従わせており、『人魚の唄』を歌って男を虜にすることができる。少なくとも、そう言い伝えられていた。
「そうね。もしそれが本当だとすれば、とんでもないことだわ。甲板で起きている騒ぎは、もしかしたらそいつらが原因かもしれない」
 そこまで言ってから、ルツは一つの事に気がついてシエリに聞いた。
「『人魚の唄』は本来、男にしか効果がないと聞いたことがあるけど、どうしてあなたはそれを聞いて倒れたの?」
 ルツ自身、マーメイドに遭遇したこともなかったし、『人魚の唄』を耳にする機会も今までなかった。だから本当に男にしか効かないのか、女が聞いた場合はどうなるのか、実際には知らない。
 聞かれたシエリにもよく分からないようで、返ってきたのは曖昧な答えだった。
「『唄』とは言うが、あれは耳を突き刺すような音の暴力だ。とても聞けたものではないぞ。他の人間にどう聞こえるのかわたしは知らないが、耳障りで不愉快な声だった。それも、ものすごく高音の」
 頭が痛い、と思ったらもうここにいた。シエリの感覚ではそうだった。
「男の人にもそういう感じに聞こえるのかしらね?」
「分からない。ただ、あれを聞いた男がどうなるのかなら、知っているぞ」
 シエリはそう言って、ルツに説明した。
「立ったまま寝ているような感じだ。目を開けたまま夢を見ているような、間抜けな顔になるぞ。一度そうなってしまえば、あとはマーメイドの思い通りだ。自分から勝手に海に飛び込んだりもする。どうにか唄に屈しない頑固な男がいたとしても、それはマーメイルが片付ける。うまくできている」
 まるで感心しているように話すので、ルツはちょっと吹き出してしまった。
「そんなふうに言われたら、男たちは困るでしょうけどね」
 そして、シエリには部屋にいるように言い含めてから、ルツは部屋の外に出た。
 戸を閉められる前にシエリが聞く。
「どこに行くのだ?」
「上よ。だって今の話が本当なら、女しか戦力にならないんでしょう? 哀れな男たちが海の藻屑になる前に、助けに行ってあげなくちゃね」
 ルツは笑いながら言って部屋の戸を閉めた。

     *

 キルトは、昔習った応急処置を必死に思い出そうとしていた。
 意識があるかどうかを確認し、呼吸と心拍を確かめる。出血がある場合は、血止めが必要だ。
 それから、それから……。
 血を流して倒れているカイツを目の前にして、キルトはそうとう慌てていた。
「おい……おい、大丈夫か?」
 おそるおそる声をかけてみたが、反応はなかった。次は呼吸と脈だ。しかしこれは確かめるまでもなく、カイツの胸が上下しているのがすぐに分かった。少しほっとする。
「あとは、血止めだよな。何か、しばるものがあればいいんだが」
 しかしそんな都合のいい物が見張り台にあるはずもない。キルトは止血に使えそうなものがないかと自分の身体を探ったが、首に巻いていたスカーフくらいしかなかった。とりあえずそれで最も出血の多かった右肩のあたりをがっちり結ぶ。
「だめだ……ぜんぜん血が止まらない。放っておいたら本当にまずい」
 どうにかしてここから下ろさなければならない。しかし、とてもではないが長身のカイツを一人で背負って下りられるとは思えない。何人かの手助けが必要だろう。
「でも今は、下は戦闘中だから」
 どうしようもない、そう思って下をのぞいた時だった。
「……?」
 甲板の様子がおかしい。さっきまで剣を構えていたはずなのに、皆だらりと腕を下におろして、スキだらけで突っ立っている。
「……おい……」
 信じられないものを見るような気持ちで、キルトは下の様子を凝視した。
 取り囲んでいるマーメイルの方には何の変化もない。抵抗する様子のないブランガルに向かって太い右腕を容赦なく振り上げる。
「危ない! よけろ!」
 考えるより先に身体が動いていた。
 キルトは真下の甲板に対して、ほとんど垂直に銃弾を撃ち込んだ。二発。そのうちの一発がうまくマーメイルの右肩に命中して、きわどいところでブランガルは助かった。
 しかし相変わらず、誰も動かない。
「どうしたんだ?」
 ただごとではないと思った。
 可能な限りの速さで連射したが、敵の数が多い。おまけに、真上からだと的がひどく小さくなるため、正確に当てるためには狙いを付けるのに多少の時間が必要だ。それでも驚くべき命中率でマーメイルの攻撃を防いでいたキルトだった。
 その時、『それ』がキルトの耳に届いた。
 どこか甘く、ねっとりと耳にこびりつくような歌声が。





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