第1章 見えない月の導き


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「シータは人を熱くし、エータは人を鎮める、か。それなら、ラムダはどうなんだろうね?」
 誰にともなく、ラプラがつぶやいた。
 存在するのかしないのかも定かではない、黒月《ラムダ》。
 あると信じている者にとっては恐怖と不安の対象だが、ないと思っている者にとってはただの闇夜でしかない。一年のうちの3ヶ月間、双月のどちらも空に輝かない頃にだけ、決して見えない漆黒の月が夜空に浮かんでいるかもしれないというのだ。
 手も届かず、目にも見えないものを、誰に証明できるだろう。存在することはもちろん、しないことすら、証明することは難しい。それでも敏感な人々は、この虚月の時期になると何らかの不穏なものを感じとるらしいのだ。その感覚だけが、証拠といえば証拠だった。
「俺は、信じているわけじゃないが……」
 ブランガルの口調は苦かった。
「信じてるわけじゃないんだ。なんと言っても、根拠がなさすぎる。今が虚月だから良くないことが起こるとでも考える方が、よっぽど現実的だってことも、わかってる。だが、疑うには十分なものがそろっているような気もするんだ」
 そう言って、先ほどラプラから報告された鳥の一件のことや、ジーク船長の最期の言葉を例に出す。
「なるほどね。不可解な行動をとった魚と鳥、黒く変色して灰のように消えた血、唯一の生還者だったジーク船長が最期に教えてくれた『月』のヒントか」
 ラプラは一つずつ整理して並べた。
「さっきの魚や鳥たちは、何らかの影響を受けて狂暴化したのか、あるいは強い魔性のものに操られていたと考えられるね。血の一件も加味して考えるなら、あきらかに禍々しいものの影響だったと見るべきだ。灰になって消えてしまうなんて、まるでどこかで聞いたような話じゃないか?」
「《動きまわる死者》か? 斬っても刺しても効果はなくて、殺すためには心臓を聖なる武器で貫くか浄化の炎で焼き尽くすしかないらしいな。おまけに突き殺した屍体はその場で灰になって消し飛ぶとか」
 ブランガルが話したのは不気味な魔族の一例だ。伝説としては有名な話で、彼らは夜な夜な墓場の近くを徘徊しては若い娘の生き血をすすって生きているということだが、実際にそんな不気味な者に出会ったという話は聞いたことがない。
 つまり、これもただの伝説だ。
「そう。ま、この場合は聖なる武器でもなんでもなかったわけだけどね。消えたのも屍体そのものじゃなくて、血だけのようだし。でも、背後に何か、邪悪なものの存在があるような気がしても、おかしくないだろう。その上、ジーク船長の言葉がある。これはもう、月を疑えと言っているようなものだ」
「どの月だ?」
 あくまでも慎重な姿勢をくずさないのは、船長としての責任があるからかもしれない。
 ラプラもそれがわかるので、少し気の毒そうに言葉を続ける。
「言うまでもないじゃないか。シータもエータも、どちらも恵みをもたらすものだ」
「だが、あるかないかもわからんような黒月の心配をしていても、どうしようもないだろう。我々がしなければならないのは、原因の究明だけじゃないんだ。どういう手段かわからんが、とにかく航路を復活させて魔物だかなんだかの心配をしなくてもいいようにする必要がある。第一、本当に原因がラムダだったとしてもだ。問題の解決に対しては何の答えにもならない」
「確かに……手も届かないような相手だよなぁ」
 じっと二人のやりとりを見つめていたシエリが、ここで妙にのんびりと口を開いた。
「さっきから二人とも、なぜ、黒月のことを話しているのだ?」
 ブランガルの藍色の瞳と、ラプラの緑色の瞳が、そろってシエリに向けられた。
「黒月ラムダの伝承くらい、聞いたことないのかい?」
「子供には関係ない話だからな」
「ラムダについては、おまえたちよりもよく知っているぞ。だが、関係ないと言うなら黙っていよう」
「詳しいって、どれくらい」
 ラプラが興味津々で聞き返した。
「何故そんなにラムダの話を聞きたいのだ? 今さらではないか」
ブランガルがいかにも胡散臭そうな眼でシエリを見る。
「今の話を聞いてなかったか? 今回の、一連の異変の原因が、もしかしたらラムダの存在なのかもしれないって話だよ」
「そこまで証拠がそろっているのにこれ以上の議論は必要ないだろう。原因はラムダだ。ほかに何を悩むことがあるのだ?」
「だから。そのラムダの存在そのものが怪しいんだから、勝手に決めつけて話を先に進めるわけにはいかないんだってば」
 怪しいどころか、大の大人がそんなことを真面目に議論しようものなら、周囲からどんな目で見られるかわかったものではない。
 今度はシエリがきょとんとする番だ。言葉遣いは可愛いくないのに、小首をかしげる様子は歳相応に見えてしまうから不思議である。
「なに?」
「勝手に決めつけるわけにはいかないんだよ」
 ラプラはもう一度繰り返した。
「その前だ。なんだと?」
「だから……ラムダの存在なんて、あやふやなものじゃないか。存在しないかもしれないものに、この異変の原因を押しつけても、問題は何も解決しないだろう」
「おまえたちは、シータやエータの存在も、あやふやだと思っているのか?」
「いや、まさか」
「シータもエータも信じて疑わないのに、どうしてラムダだけ疑うのだ。すじが通らないぞ」
どうしてシエリがそこまで強くラムダの存在を主張するのか、ラプラには理由がわからなかった。
 ブランガルにも分かるわけがない。小さい子供に言い聞かせるような口調で言ってやった。
「シエリといったな。どうやら君は無条件でラムダが存在していると信じることができるようだ。だが我々はそう簡単に何でも信じるわけにはいかない。証拠がなければ、他人に信じさせることもできないんだよ。大人の社会とはそういうものだ。それとも何か、証拠があるとでも言うつもりか?」
 ブランガルは言外に「だまっていろ」という意味をふくめたのだ。子供に特有の思い込みで意見するな、とも言いたかったのだろう。
 シエリはブランガルを見据えた。その瞳はさきほどより色が深くなって、まるでシータのような深紅に染まっていた。
「おまえたちは、証拠がなければ何も信じようとしない。それどころか必ず疑う。なぜ理解しない? 世の中にはただ感じるというだけで疑いようもない事実が存在しているということを。自分が感じたこと、それこそが何より確かな証拠だと、なぜ思えない? ラムダの存在を、その黒い力を、一度でも感じたことがないと言い切れるのか?」
 それまでの子供っぽい口調ががらりと変わっていた。迫力も、朗々としてよどみない言い方も、幼い少女のしゃべり方ではなかった。この勢いには、ブランガルばかりかラプラまで驚いた。
 いつもひょうひょうとしていて、ろくに会話らしい会話をしていなかったシエリが、たたみかけるように続けた。
「存在を証明しろと言うが、おまえたちはどうすれば信じるのだ。月まで行ってみれば信じるのか? 闇夜の中で見分けられれば信じるのか? そんなことは誰にもできない。月に昇れるのは身体を捨てた死者だけだ。闇の中の闇色を見極められる目を持つ者もいない。だが、シータやエータはどうなのだ。やはり行くことはできない。見えているから信じられる、とおまえたちは言ったが、自分の見ているものが真実の姿だとどうして言い切れる? その証拠はなんだ? 証拠が示せないのなら、なぜ信じられるのだ? それは自分の感覚を信じているからではないのか? どうなのだ」
 どうなのだと言われても、返事のしようがない。
 どうやら少女が怒っているらしいということを、ラプラは理解した。燃えるような赤い瞳と静かに立ちのぼる青白い怒りの気配が、二つの月をそれぞれ表しているようだった。
 ようやく口を開いたのはラプラだった。
「……わかった。ラムダの存在を疑う理由は俺たちが思ってるほど確かじゃないってことは、よくわかった。わかったから、ちょっと落ち着こうよ、お嬢ちゃん。じゃなかった、シエリ」
 両肩に手を置いてなだめようとする。シエリも、少し興奮していたのに気付いて、小さく息を吐いた。
 ブランガルも、思わず詰めていた息をゆっくり吐き出して、あらためてシエリにたずねた。
「……13、4歳かと思っていたんだがな?」
 見誤っていただろうか、と聞くブランガルに、シエリはもうすっかり落ち着いた様子で答える。
「14だ。もう少しで15になる」
 今のシエリからは、さっきまでの静かな怒りは感じられない。ラプラには、何故シエリがラムダの存在を疑われて腹を立てたのか、その理由がさっぱりわからなかった。
 ゆっくりとしたいつもの口調に戻って、シエリは黒月ラムダについて知っていることをいくつか話した。
「ラムダに関しては、魔法をあつかう者よりも魔物について研究している者の方が、たくさんのことを知っているはずだぞ」
 シエリの話では、特に魔物や魔族といったものを対象に研究を続ける学者たちの間では、ラムダ存在説は既に当り前のものになっているらしい。
 彼らの説はこうだ。力を持つ生き物のうち、善いものはシータやエータの影響を受け、その月の持つ力を使うことができる。それは妖精や幻獣といった存在として知られている。そして悪いものはラムダの影響を受け、不気味にゆがみ、ねじれて、魔物となり、黒月から邪悪な力を引き出してふるうのだ。
「ラムダは虚月の間に最も強くその影響を及ぼしている。だからこの時期は、あちこちで魔物が活性化して、事件が起きる回数が増えている。そのとおりの統計が出たらしいぞ」
「そういう統計は見たことがないな。みんな何となく、この時期になると良くないことが起きるような気がしてるだけか、とも思っていたけど……そうか、実際に事件の発生回数は増加してるのか」
 納得してうなずくラプラ。
 ブランガルは、まだ疑いの眼差しでいた。
「それは本当に黒月のせいか? 虚月だから、双月の恵みがない季節だから、増加しているとも考えられるじゃないか。そう考えた方がよっぽど自然だと俺は思うがな」
「同じことなんじゃないかな。どちらにしても、双月の無い季節に、双月の恵みがないせいで、何か良くないことが起こっているらしい、このことに違いはないんだから」
 ラプラが、またシエリに興奮されてはたまらないとばかりに、つとめて軽い口調で言い切った。そしてガタンと席を立つ。
「ほかにも何か気がついたら、また報告しに行くよ。さっきの、鳥みたいな事とかね」
「そうだな。今はまだ、何が起こるか予想がつかない。見張りにでもついてくれれば助かるんだが」
「そうしよう。この時間帯に甲板で立ちっぱなしっていうのも、暑くて大変そうだけどな」

 二人が出て行くまでじっと座っていたブランガルだが、ここにいつまでも残っていても、意味がない。自分も部屋に戻ろうと立ち上がったところで、先に入り口の戸が開いた。
「なんじゃい、船長がまだ残っとったか」
「コック?」
 丸い黒眼鏡をかけた、縦にも横にも大きな男が手に布巾を持って入ってきた。相変わらずのその格好には、どこか笑いを誘うものがある。
「どうせ傭兵なんて連中は食事も汚いにきまってらぁ。聞いたら、あの坊主め、ろくに拭きもしないで戻ってきたとぬかした」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、布巾でテーブルのすみの方から拭き始める。たしかにこのまま放っておいたら、もう会議には使えそうもないくらいに、テーブルは汚れていた。
 だが文句の割には、コックがキルトに来させなかったのが、ブランガルには不思議だった。
「なんでお前が自分で来たんだ? テーブル拭きなんて、その坊主にやらせれば良かっただろう」
「あの坊主なら今は流しで大騒ぎになってるとこじゃい」
 コックの口元が不敵に笑う。
「わしがこのテーブルを拭いて戻って来るまでに全部ぴかぴかに洗っとけと言いつけてきたからなァ!」
 楽しそうに言うが、それはちょっと無理難題ではないかとブランガルは思った。性根の真面目そうな少年だったから、今頃は本気で洗いものと格闘しているような気がする。
 少し同情したが、ルツの最初の言葉を思い出した。
「……なるほど。若い方が、無理がきく。確かにな」
 一人で納得して小さく笑うと、コックに後を任せて彼も自室に引きあげていった。





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