第1章 見えない月の導き


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 空を見上げた。
 この上もなく晴れ渡っていた。わずかに浮かぶ雲は、風でちょうど良く流されている。
「いい天気に、いい風だ……出航にはもってこいだな」
 ここしばらく、荒れた天候が続いていた。久しぶりの晴天は、この船出が祝福されている証しなのだろうか。
ブランガルには、とてもそうは思えない。
 荷物はだいたい積み終わっていた。甲板に座り込む赤毛の少年の姿が見える。その横でげらげら笑っているのはジョイだ。どうやら彼もウォンを認めたらしい。
 やとった傭兵4人もすでに船に乗り込んでいる。
9時まであと少し。
 葉巻に火をつける。出航前の、長年のクセだった。彼にとっての儀式のようなものだ。
 くわえたまま、吸い込むでもなく吐き出すでもない。ただぼんやりと空をながめていた。煙がゆっくりとたなびく。
「……傭兵が4人、人足が2人、客が1人。乗組員は4人。――これで何とかなればいいんだが」
 ジーク船長の船は、戦闘員でもある乗組員が10人という規模の船だった。万が一に備えて傭兵も2人乗せていた。それでも戻ってくるのが精一杯。
 ブランガルの船は中型で乗組員も2、3人いれば動かせる。大型で重厚な船よりも、機動力のある中型船の方が彼の好みなのだ。運べる貨物も限られるが、高価なものの中には運搬速度が求められる品物も少なくない。ブランガルはもっぱらそうした商売を得意として来た。だが、今回に限っては、それが裏目に出るかもしれない。敵の正体がわからないのでは、対策も作戦もままならない。
「せめて、あと1人か2人……乗組員か傭兵がいればな」
 そうすれば、戦闘員の人数がジーク船長の船と同等になる。ウォンとキルトは人夫、つまり労働力として乗船しているが、客ではないのだから当然、いざという時の戦闘要員に数えられていた。
 可能性の問題だ。帰港した船と条件を揃える。生存率は、事前に高められるだけ高めておきたい。人数を揃えて、さらに機動力がより高いこの船ならば……。
 時計を取り出してふたを開くと、9時ちょうど。出航の時間だ。
 見わたしてみると、港にはいつの間にか人が集まっていた。《シルフィア号》の出航の噂は意外と広まっていたらしい。それでも「乗せて欲しい」と名乗り出てくれる者はいなかった。皆、遠巻きに、物影から首をのぞかせるようにしてこちらを見ている。
 苦笑しつつ、仕方がないことだとブランガルは思った。誰かが道を開かなければならないとは言っても、誰だって自分の命を賭けたくはない。みんなそうだ。そんな人々を責めるつもりはなかった。自分だってジークのことがなければ、名乗りを上げていたかどうかわからなかった。だが、行くと決めた。決めたからには、必ず帰ってくるつもりだった。

「……あれは?」
 船に乗ろうとしたブランガルの足をとめたのは、人垣を越えてこちらに近づいてくる青年の姿だった。
 その人物には見覚えがあった。まだ、船が比較的平和に航海できていた1ヶ月ほど前だ。ユーゼリア大陸側の港町、シャルウィン王国の首都ローアンからディオン港まで乗せてきた客の中にいた青年だ。褐色の肌にちょっと豪華な純白の服装が目立っていたので、よく覚えている。それに、航海中は特に色々と世話になってもいる。名前は確か――
「シュフィール卿!」
「ラギと呼んでくださいって、あの時も言いましたよ、船長」
 背の高い青年は、屈託なく微笑んでそう言った。卿というのは、貴族に対する一般的な敬称だ。ブランガルはあまりそうした肩書きを気にする方ではないが、彼に対しては自然と敬意を表していた。
「今日ここに来たということは、出航を知って?」
 かすかな期待を込めて、ブランガルはたずねた。
「はい。この前乗せていただいた時は本当にお世話になりましたから。乗せてもらえるなら、僕でよければ力にならせてくれませんか?」
「願ってもない」
 まさに、期待していたとおりの申し出だった。彼の腰に下がっている剣がただの飾りではないことを、前回の航海でブランガルはよく承知していた。一人でも多くの力を借りたい今、ラギの申し出は心強いものだ。
「実はしばらく前から、シャルウィンの家に帰れなくて困っていたんです。ブランガル船長の船が出るという噂を聞いて、もしかしたら、と思って」
 そこでブランガルは、重大な問題に気がついた。
「卿の申し出は本当にありがたいんだが……情けない話だが、俺にはもう礼に支払えるようなものが残ってない」
 集まった4人の傭兵に支払った前金と、今度の航海に必要な物資を揃えた支払いで、ブランガルの私財はすっかり底をついてしまっていた。
「他にやとった傭兵に、後から支払う分もないんだ。まぁそのあたりは、無事に帰港できれば国からたっぷり礼金がとれるだろうから、心配はしてないんだが」
 ラギはちょっと考えるように目をしばたいて、またふわりと笑った。
「よかった。ちょうど僕も帰りの船賃がなくなってしまって、困っていたところでした。ユーゼリア大陸まで運んでいただく代わりに、用心棒として雇ってもらえるなら、助かります」
「そりゃあ……もちろん、俺は構わないが。いいのか?」
 あきらかに船賃の方が安い。ブランガルの方が得をすることになるがそれでもいいのか、と念を押したが、ラギは変わらずにこにことうなずくばかりだった。
 苦笑しつつ、肩に手をかけて船へうながした。
「……助かる。さぁ、乗ってくれ。すぐに出航だから」
 二人とも桟橋を渡って船に乗り込んだところで、ブランガルは船員の一人に声をかけた。
「出航だ。桟橋を外してイカリを上げろ!」
 号令とともに、船員達が動きだす。一人は桟橋を取り外して船にしまい込み、一人はイカリを巻き上げ、二人が帆を上げるために帆柱に飛びついた。ブランガルは船長室に入っていった。
 その時だった。

「待て」

 桟橋を外した船員に制止の声がかけられた。ブランガルの声ではない。もっとずっと可愛らしい声だ。
 驚いた船員がそちらを振り返ると、少女と青年がこちらに向かってずんずん近寄ってくる。いや、青年の方は後から少女を追いかけてきているようだが。
「なんだ? あんたらもこの船に乗るのか?」
「乗るとも。もう3日もここで待っていたのだぞ」
「乗船券は?」
「そんなものはないぞ。必要なのか?」
「当然だろう。傭兵以外ならな」
「では、傭兵として乗れば問題ないのだな」
 シエリはきっぱり真顔で言いはなった。ラプラの止めるすきもなかった。
 あきれた顔で船員は答えた。
「あんたらがか? 冗談きついぜ」
「人を外見で判断するものではないぞ。おまえは10歳の魔法師でも指一本で人を殺せるのを知らないのか?」
 シエリの表情からは凄味すら感じられた。決して自分がそうだ、と言ったわけではない。船員は頬をひきつらせてシエリの身なりを凝視する。だが、魔法師という少し特殊な職業の人間に、知り合いなど居ない。マントを着けているとか、魔法の杖を持っているとか、そんな嘘か本当かわからない知識しか持たない船員にとっては、シエリの真面目な表情と赤い双眸だけが真実だった。
思わず後ろに一歩下がり、身振りで乗船するように示す。二人が乗ったか乗らないかのうちにさっさと桟橋を片付けて、その場から逃げ出すように自分の持ち場へと走り去ってしまった。
「……今のは、お嬢ちゃんのことかい?」
 まさかとは思いつつ、ラプラがおそるおそる聞く。
シエリは「そういう伝説があるのは事実だぞ」と、変わらず真顔で答えた。

「出航ー!」

 海の男特有の、よく響く大声が出航を告げる。
 双月暦3578年、2月。
 《シルフィア号》は、ディオン港から滑るように出航した。




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第1章 見えない月の導き