覚悟〜光を追う者〜


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 気づいた時は、もう一人だった。親とか、兄弟とか、親戚とか、―――――時々、人の話の中にでてくる言葉が何なのか理解できなかった。家族≠ニか血の繋がりがない≠ニかって意味がわかったのは警察が説教をたれた時だ。オレにそんなのは1人もいないってのもその時にわかった。だけどそれを知っても何も思わなかった。その日を生きるために毎日、必死だった。生き抜くために関係ねえことをいつまでも考えてる暇は無かった。



 あれはどれくらい前の事だろう。ウォンは記憶を辿る。思い出せる範囲内で、ウォンの初めの居場所はスラムの女の家だった。頬のこけた、にごった目をした女だった。昼間は酒を飲みながらわけの解らない独り言を言い、死んだようにベッドに倒れこんで眠る。夜になると起き出し、傾いた鏡の前で化粧をして出かけていき、朝まで帰ってこない。そんな人間だった。幼いウォンはその女が大嫌いだった。女もまたウォンの事を、いつ捨ててもいい都合のよい話相手程度にしか考えていなかった。やさしく話し掛けることもあれば、髪を持って引きずりまわされることもあった。頭をなでることもあったが、空の酒瓶を投げつけられることもあった。
 それでも女は時々、自分の存在価値を確かめるようにウォンに金を渡した。自分の金で生きている人間がいるということに、自分の生きる価値を見出そうとした。その金でウォンは何とか生き延びた。
 その頃ウォンを育てたのは、スラムの住人だったといっていいだろう。善人もいれば、悪人もいた。彼らは色々なことを、ウォンに教えた。金の使い方、世の中の事、近づいていいものだめなもの。その日の飯を食うための汚い方法も、ウォンは身をもって教えられた。騙されて、有り金を全部奪われる事もあった。その度に人を疑う事を覚え、自分の浅はかさを悔いた。力ずくで金を取られることもあった。その度に、強くなりたいと願った。時には金を盗み、時には残飯をあさり食いつないだ。スラムで小さな子供1人が生きるために、プライドなど何の役にも立たなかった。
 
 ある日、女は帰ってこなくなった。しかし、ウォンはなんとも思わなかった。どこかに自分を満たすものを見つけて出て行ったのか、それとも生きる気力を見失ったのか。出て行った理由は何であれ、いくらもたたない内にウォンは、女の顔も忘れていた。


 女が帰ってこなくなってから、ウォンはその家を出なければならなくなった。新たに住む場所の相談のため、前からよくしてくれていた、スラムの知り合いのところへいった。ウォンの知り合いであるその初老の男は、名をスライボといった。スラムにも色々なものがいて、スラム内の物件や商売に広くかかわるほどに、顔のきくものもいた。中には、スラムの外にも手を伸ばしてる者もいて、スライボも、そんな権力者のひとりだった。だらしなく伸びたあごと口のひげは、ウォンが出会った時は多少、黒が混じったいたが、今では真っ白で、スライボはじいさん≠ニ呼ぶウォンをもう咎めなくなった。服も汚れたものばかりで、一目でスラムの人間だとわかるような格好だった。だが、金はもっていた。不思議に思ったウォンが一度、何でこんな所にいるのか、と聞いたことがあった。が、笑うだけでスライボは答えなかった。そしてもう一つウォンが不思議に思った事があった。それはスライボが関わったところで何の得にもならないような自分の面倒を見てくれた事だった。
 

 スライボがウォンに教えたのは、自身がスラムの外に経営する店の屋根裏部屋だった。




『煉瓦』
 
 ウォンは年季の入った木の板に、荒っぽい文字が彫られた看板を見つけた。その店は、夕から始まり、夜には地元の人間や旅のもので賑わう居酒屋である。

 ウォンはスライボにいわれたとおり、まだ店の開かない昼にその店を訪ねることにした。

「誰かいねえのか。」

 店の中はがらんとしていた。小さな窓と、入り口から入ってくる日の光が、ぼんやりと店内を照らしている。イスが逆さまにあげられたテーブルの間を縫って、ウォンは店の中へ入っていった。今は薄暗いカウンターのむこうには、よく見るとたくさんの見慣れぬラベルの酒ビンと、数え切れないほどのグラスがつまっていた。
 たしか、スライボのじいさんが居酒屋だって言ってたか、ウォンがふと思い至ったとき、目の前で扉の開く音がした。扉があることにも気付いていなかったウォンは驚いて、思わずカウンターの影に隠れそうになった。



「なんだ、坊主。ここは、ガキの来るところじゃねえぞ。」



 ウォンが振り返ると、奥にあった扉の前に、ガタイのいい40半ばくらいの男が立っている。貫禄のある口ひげに加えて、サイドを残し、前から後ろにかけてはげあがった頭が、なんとも印象的だ。起きたばかりだったのだろうか。眠そうな目で、うさんくさげにウォンを、にらみ付けている。
 数秒、その貫禄に、あっけに取られていたウォンは沈黙の空気の中、はっと用件を思い出した。
「あ、オレ・・・。」
と、言いかけたところで、男は思いついたように、わずかに眉を上げた。

「その赤い髪、スライボのじいさんが言ってたガキか。」


 事情がわかってもなお、うさんくさげにじろじろと見てくる男に、ウォンは少々腹が立ったが、ここで反抗的な態度にでれば、せっかく紹介してもらった寝床の話が流れてしまう。そう思い、ウォンは話が進むまでじっと待つことにした。
 男は何事か考えていたようだったが、まあいい、とつぶやくと、ウォンについてくるように言った。どうやらここに住み着くができそうな気配を感じ、ウォンはにっと笑うと男の後に続いた。
 先ほど男がでてきた奥の扉を通ると、正面にもう一つ扉が、右には、地面剥き出しの廊下が伸びていて、突き当たりに、表につなっがっているだろう扉が見える。

「ここは、俺の家だ。間違っても勝手に入ったりするんじゃねえぞ。」


 言いながら、男は正面の扉を指差した。
 入らねえよ、と心の中で毒づきながらウォンは右に曲がって、剥き出しの地面を歩いていく男に続いた。つきあたりの扉の前で、男は止まり、普段はこの扉を使うようにと言った。扉のところで、左を振り返って、ウォンは初めて今まで壁だと思ってたところに階段があるのを見つけた。階段の上の方は、暗くてよく見えない。


「この上が屋根裏部屋だ。店の真上になってる。気をつけて歩かねえと、店の天井をぶち抜くことになるからな。物がたくさん置いてあるが、適当に寄せて使いな。一人寝る分くらいの場所はあるだろう。あかりは、ランプがあるからそれを使え。言っとくが―――」
男は、ウォンを振り返って上からにらみ付ける。
「何かあったら追い出すからな。」

 男はてきぱきと説明と注意事を並べると、さっさと行ってしまった。

 今までと何ら変わりのない事だったが、ここでも自分は歓迎されてないらしい。向こうから聞こえた乱暴に閉められた扉の音に腹が立ったが、ウォンは気を取り直して、新しい住まいにお目にかかることにした。


  ミシミシ音を立てる階段をあがり、壁にかけてあるランプを見つけ明かりをつけて唖然とする。そこは、およそ住まいと呼べるものではなかった。窓一つないその屋根裏部屋に、明かりをかざすと、まず目に入るのは大量のクモの巣で、向こうが見えないほどだ。じめじめした壁には、黒い染みが広がっていて、部屋全体にかび臭さが立ち込めている。どこもかしこもほこりだらけで、足を踏み入れると、積もったほこりの中にくっきりと自分の足跡が残るほどだ。積みあがった箱には、何が入ってるのやら確かめたくもない有様だった。

「これを、どう寄せろっつーんだよ、あのクソジジイ。最初からここに俺を住まわせる気がねーんじゃねーのか?」

 しかし、文句をいったところで何も始まらないし、すごすごと出て行くのは癪である。ウォンは、そう思いなおし少しでも環境を整える努力をする事にした。

 ランプを部屋全体に明かりが行き渡る場所に置き、積みあがった箱を一つずつ端に寄せる。箱を動かすたびに大量のほこりが舞い上がり、光の中に照らし出されたが、片付けの半分が終わる頃にはたいして気にもならなくなっていた。途中で見つけたほうきで、箱をよけたところからどんどん、ほこりをはいていく。恐る恐る開けた箱の中には意外にも、役に立ちそうなものが色々入っていた。針金、ペンチ、ガラス片、のこぎり、鍋、びん、布。発掘するような気分で、箱の中身を改めながら掃除を進めていくうちに、掃除も終わりに近づく頃には気分も上向きになっていた。
 掃除が終わってみると、なるほど確かに一人寝る分の場所はあった。それどころか、予想以上の広さがあった。ウォンの胸に嬉しさと、満足感が湧き上がってきた。それと同時に、ひどく疲れたことに気づく。いつのまにかほこりやら汚れやらで自分は真っ黒であったが、そんな事はどうでもいいほどに眠気が襲ってきたため、ウォンはあいた場所に、ごろりと横になると、すぐに眠りについた。

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