第3章 遺跡の地下に眠るもの


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序話

 二つの月と星々のきらめく夜空を、うっとりと見上げる黒髪の青年がいた。
 黒い服に、黒いフード付きの外套を羽織っている。その存在ごと夜空の闇に溶け込むような装いの中で、一房だけ白い髪が左頬に掛かっていた。
 フードの襟元に隠れた口から、ささやくような小さな声がこぼれる。

「もうすぐだ。もうすぐ──」

 虚月の夜空は暗い、というのは人々の常識だった。大地を照らす二つの月が、虚月の時期だけ空を照らさないからだ。多くの人々はこの季節を嫌い、再び月が昇る赫月の季節を心待ちにする。
 しかし今、焦がれるような青年の視線の彼方には、虚月にもかかわらず双月が煌々と輝いていた。
 人々から「リヴ」と呼ばれている、もう一つの世界。
 そこは、人々が暮らす大地の裏側だった。
 表側が虚月であるこの時期、双月は裏側であるリヴに現れるのだ。
 双月と星に照らされた明るい大地のただ中で、青年は一人だった。周囲には民家も何も無い。田畑も、整備された道路もなく、野山の木々や草さえ無い。
 しかしリヴでは、それは珍しくない光景だった。
 そこには人の世の法と秩序など存在せず、富や権力にも何の価値も無い。あるのはただ、荒れた大地と、弱肉強食のことわりのみ。ほとんどの人間は、ここではただ弱者として搾取され、あるいは排除される存在となる。
 青年は、そこにいた。
 荒涼とした、土とも岩ともつかぬ固いゴツゴツとした大地に、一人でゆったり腰を下ろし、ただじっと虚空を見上げているのだった。
 赤土色の地面は青年の目の前でぷつりと途切れ、眼下には底の見えない奈落が続いている。崖の下から、時折ぬるい風が吹き上げては、青年の外套をはためかせていった。

 周囲には人の気配など無かったが、やがて背後から近づいてくる白い人影があった。
 足音をたてずに歩み寄り、物腰も柔らかにふわりと腰を下ろす。
「オルド」
 呼びかけられた青年が、目だけで応じる。
「太陽のかけらが隠されているかもしれない聖剣の情報が、届きました」
 その言葉に、今度はフードを下ろして振り向いた。オルドの黒い瞳には、驚きも喜びも浮かんではいなかったが、確かな興味を持って続きを促していた。
「それで?」
「その聖剣を求めて競う人々が、集まっているようです」
「その剣と、そこに集まった人間が、両方とも目的のものであるかもしれないということか──レイド?」
 つい、と顔をのぞき込まれて、レイドと呼ばれた白い長髪の青年はひと呼吸おく。
「そういう可能性も考えられますね。だから──」
 レイドが言葉を続ける前に、オルドはすらりと立ち上がった。
「では、確かめてみよう」
 オルドは軽く両腕を広げ、目を閉じながら夜の冷気を吸い込むように空を仰ぐ。ゆっくりと息を吐き、深呼吸にも似た動作を終えて目を開けた。
 呪文を唱えたわけでも、道具を使ったわけでもない。何の変化も見当たらない。だが、
「──いるな。剣の方は分からないが、そこに集まった人間の中には"印持ち"がいる」
 そこで初めてオルドの口元に微笑が浮かんだ。
「トワ?」
「いーるよーっ♪」
 オルドの呼びかけに応えたのは、場違いに陽気な声だった。
 暗闇の中から、軽快な足取りで小柄な少年が現れる。いや、少女かもしれない。幼い印象で一見すると子供のようにも見える。短く刈られた明るい黄緑色の髪の毛が、一歩ごとにリズミカルに上下していた。
「この聖剣、見に行っておいで」
「いいよ〜」
「トワを行かせるんですか?」
 トワのあっけらかんとした返事と、レイドの少し意外そうな言葉が同時に上がった。
「誰か適当な人間が行けば……」
「トワが行って、直接その"印持ち"を見つけられれば、その方が早い。トワを通して、見えるだろう?」
「……それは確かに、その通りですが。トワ、行くのか?」
「行くよ♪ だって、最近ずっとこっちに籠もりっきりで、トワ退屈してたんだもん」
 どこか不安げなレイドとは対照的に、尾羽根のような飾りを振ってくるくる回るトワ。まるで、これから旅行にでも行くような浮かれようだ。その動きを、オルドの前でぴたっと止める。
 小柄なトワは、オルドを見上げて言った。
「すぐ行くよ?」
「ああ。剣と、人間と、両方見るんだぞ」
「はーいっ」
 満面の笑顔でオルドに答えたトワは、両手を首元に持っていった。そこには黒い幅広のチョーカーに、ほとんど光沢のない金属質の飾りが付けられていた。真ん中に一つだけはめこまれた、小さな黒石。
 その飾りに両手をそえて、トワは2、3歩前へ進む。もう、そのすぐ先は奈落の崖だ。
 ぎりぎりのところでくるりと振り返り、トワはオルドとレイドに向かってにっこり微笑んだ。
「じゃあ、行ってきまぁーす♪」
 その言葉と同時に、崖の端を蹴って空中に身を踊らせる。
 闇の奥へと後ろ向きに落下しながら、明るい色の髪の毛が、笑顔とともに虚空へ消えた。

「……」
「気になるのか?」
「……いえ」
 トワが消えた方をぼんやり見つめていたレイドだったが、やがてオルドの方に向き直ると、目に掛かる髪をついとかきあげた。
「トワは、トワらしくやるでしょう。私が意外だったのは……、確証のない話には、これまであまり乗り気ではないように思っていたので」
 オルドがあっさりと興味を示したことに、レイドは驚いていた。
「それとも何か、確証が?」
「ない。何もなかった」
 月の見えない夜空を見上げる。
「でもそろそろ、育った誰かがいるかもしれない、と思っていたところだった」
 片手を、月の見えない夜空にさしのべる。
「人間が育つのは、早いから」
「……そうですね」
 レイドも、オルドと同じ方角に顔を上げる。そしてオルドの横顔を見て、聞いた。
「トワが、誰か成長した"印持ち"に接触できたら、その時は、オルドも行きますか?」
「……それもいいな……」
 オルドの表情がゆるやかにゆがむ。待ち遠しく、焦がれて、かすかに切なくもある、そしてどこか期待のにじむ顔で。
 レイドは何の表情も無く、まっすぐにオルドを見つめていた。ただひとつの信頼を心に置いて。

 ただひとつの目的のために。





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